「谷口大祐」の死亡届を無効とし、里枝を武本姓の戸籍へと復帰させる裁判所への申立は、審判が下されるまでに最短で二ヶ月、長くて一年ほどかかるだろうと城戸から説明されていた。後者については、もし却下されれば、婚姻無効確認訴訟の必要があると説明されていたが、実際には五ヶ月後の八月初旬にいずれも認められることとなった。
DNA鑑定の結果、〝X〟が「谷口大祐」でないことは科学的にも確定し、里枝の経歴から、二度目の結婚の事実は抹消された。
過去は訂正され、彼女は一度しか結婚しておらず、今はもう、夫に先立たれた未亡人ではなかった。
単に手続きが間違っていたというのではなく、彼女自身の行為が間違っていたのだった。「谷口大祐」という、会ったこともない人と結婚したのだと思い込み、周囲にも公言し、どこで何をしているのかもわからないその人が、死亡したと勝手に役所に届けを出していた。そう思うと、ふしぎなような、惨めなような、悲しい気持ちになって、彼女は自分こそ、一体誰の人生を生きているのか、その手応えを失ってしまった。
夏休みを終え、悠人の二学期の始業式の朝だった。
「おかあさん、おにいちゃん、はなちゃんがいくらおこしてもね、おきないよ。」
朝食の目玉焼きを作っていた里枝は、「ん? おきない?」と花を振り返った。
「はなちゃん、こうおもうよ。おにいちゃんは、なつやすみのあいだ、まいにちあさねぼうしてたから、まだねむたいよーっておもってるんじゃない?」
花は、そう言って、おかしそうに目を三日月にした。来月で五歳になる花は、倒置法というのか、英語のI think that ~という構文のように、自分の考えを伝える時には、必ずこんな風に、まず「はなちゃん、こうおもうよ。」と言うのだった。そこで一旦言葉を区切ってつばを飲み込み、斜め上を向いて少し考えを整理する。里枝は、それが面白くて、続きを待ちながら、いつも自然と笑顔になるのだった。
生まれた時から、花はずっと「ふわふわの子供」と皆に言われていた。体全体を見ると、特に太っている、というわけではなかったが、とにかく、両腕と両足が、人が思わず触ってみたくなるほど肉づきがよく、しかもその感触が、この世に他に似た何かを探すことが出来ないほど、「ふわふわ」なのだった。
その体も、歩けるようになり、こども園で毎日駆け回るようになってからは段々と引き締まってきて、この一年で、手足はすっきりと細くなっていた。もう「ふわふわの子供」ではなく、本人もそう言われていたことを、恐らくは記憶していないのだった。
子供は成長が早過ぎて、その子らしさ、と思っていたものがすぐにそうではなくなってしまう。死んだ遼にしても、自分が摑んでいた、聞き分けの良さだとか、我慢強さだとか、愛嬌や臆病さといった性格的な特徴が、一体何だったのかは、酷く曖昧な気がした。
しかし、花を見ていると、少なくともその外観は、ますますはっきりと父親に似てきているようだった。特に目が似ていた。鼻はどちらにも似ず高くなりそうだが。──けれどもそれは、今はまだ誰とも知れない、ある男の風貌の特徴なのだった。
里枝は、急に悪い予感に襲われたように蒼白になった。そして、卵を皿に載せ、トースターの中で焼き上がっていたパンにバターとジャムを塗ってやると、
「ちょっと、おかあさんがおこしてくるから、はなちゃん、これたべててくれる? おばあちゃんも、すぐにおきてくるとおもうから。」と言った。
「うん、わかった!」
二階の部屋に行くと、悠人はクーラーをつけて、ベッドの上でタオルケットにくるまっていた。
「どうしたの? 体調悪いの?」
悠人の返事を待てずに、里枝はベッドに腰を下ろして、背中に手を当てた。壁を向いたまま、彼はそのからだを、一層固く内に向かって引き絞った。額に腕を伸ばすと、嫌がるふうに枕に顔を埋めたが、熱はなかった。
「気分悪いんだったら、お母さんに言って。病院に行かないと。」
「……大丈夫。」
「本当?」
ほど経て、悠人は自分を奮い立たせるようにゆっくり体を起こした。そして、寝癖のついた髪を掻きながら、
「お母さんは心配しすぎなんだよ。僕は遼とは違うんだから。ちょっと風邪引いて頭が痛いだけでも大騒ぎするし。僕は僕。弟は弟だよ。」と、下を向いたまま言った。
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