大祐と出会った頃、里枝は、母に代わって店の切り盛りをするようになっていた。レジに立ったり、取引先の企業や市役所、昔通っていた中学校などに車で事務用品を届けたりしながら、毎日、ぼんやりと過ごしていた。知っている人に会うと慰められたが、父の代から大手通販会社の代理店業務も引き受けていたので、新規の顧客も少なくなかった。そして、その方が気が楽だった。
一人になると、死んだ息子のことを考えて、よく泣いた。亡くなる一月ほど前だっただろうか、医師と話をするために病室を離れ、戻ってきた時の静かに天井を見つめていた遼の横顔が忘れられなかった。何を感じ、考えているのだろう? これから何十年と生きてゆくために備わったはずの思考の能力が、ただ、間近に迫った死を認識するために機能している。勿論、自分の体に起きている恐ろしい事態が一体何であるのか、最期までわからないままだったはずだが。──里枝は、その姿を思い出すと、立っていることもままならず、顔を押さえてその場に座り込んでしまった。
残された悠人の成長を思うと、今はもう、出来るだけ明るく過ごすべきなのだった。悠人自身は、幼さ故の死への鈍感さから、帰郷してからは意外なほどに快活で、それは、里枝にとって唯一の救いだった。
父のことも思い出した。一生涯、ただの一度も自分に対して声を荒らげたことがなく、いつでも惜しみない愛情を注ぎ続けてくれた父。──特別な信仰もなく、実家は浄土宗の所謂葬式仏教だったが、天国で、父がおじいちゃんとして遼の面倒を看てくれていることをよく想像した。そうすると、少しだけ心が楽になった。実際に、母はそういう考え方をして、
「りょうちゃんが寂しくないように、お父さん、少し早う天国に行ってあげたっちゃわ。心配んなって、追いかけて行ったつよ、きっと。里枝がまだ行けんなら、俺が代わりに行っちゃるわっちゅうのがお父さんやったかいね。」と言った。
高校卒業以来、十四年ぶりに戻ってきた郷里での生活は、一種の慰安をもたらしはしたが、店の仕事机でじっとしていると、時々、自分は大丈夫だろうかと不安になるほどの空虚感に見舞われた。この世界と自分との留め金が外れてしまって、何の手触りもなく、時間が周囲を素通りしてゆく。池の底に沈んでいたゴミが、何かの拍子に浮かんでくるように、唐突に、死ぬことはそれほど恐いことではないのではという考えが意識に上った。あんなに小さな遼だって、既に経験したことであり、しかも父と一緒に向こうで待ってくれているのだから。──そして、そんな迂闊な考えに、体の芯が冷たく冴えるような恐さを感じた。
帰郷してしばらくは、横浜時代の友人のSNSを羨ましく眺めたりしたが、一週間ほど見ないでいると、自分でも驚くほど、そこで交わされている言葉や写真の一切に興味を失った。
店はいつも閑散としていたが、取引先のあるお陰で、どうにか母と息子の家族三人で暮らしていくことは出来た。しかし、先行きは明るくなかった。
毎年、盆と正月には帰省していて、シャッター通りは目にしていたが、実際に住み始めてみると、廃れゆく大きな空き家に独り取り残されているような寂しさを感じた。
通りを挟んだ店の向かいのビルの二階には、かつて彼女が八年間通ったピアノ教室があった。今はもう廃墟と化していて、建物そのものが手つかずのまま放置されている。スプレーで落書きする若者さえいないらしかった。
あそこに、週一回、道を渡って通っては店に戻って来て、父の仕事が終わるまで、宿題をしながら待っていたのだった。助手席に座って、さほど遠くもない自宅まで、父の運転で帰ったあの二人きりの時間が、今は無性に懐かしかった。……
もう一度、首都圏に戻るか。それともむしろ、博多にでも出て、新しい仕事を探すか。──そんな考えが、時折、不意に脳裡を過っては、手を伸ばして触れてみるのも億劫で、そのまま消えるに任せていた。
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