18 デカルトはできる限り「助け合う」
良識を学識に結びつける人々だけを、私は自分の審判者としたい。 ―『方法序説』第六部
哲学者になる前は兵士だったデカルト
すでに書きましたが、私は現在の職場に仕事を得るまで、フランス東部の古都、ライン川沿いに広がるストラスブールに二年ほど住んでいました。
街の中心に聳え立つ大聖堂から少し歩いたところには、フランスで第二の蔵書数を誇るストラスブール国立大学図書館があり、私は博士論文を仕上げるために、ある年の夏を毎日ここで過ごしたのでした。夏季は閉館時間が繰り上がり、十九時には閉まってしまいます。閉館ぎりぎりまで粘り、あとは追い出されるように図書館を背にして、前方に広がる共和国広場のベンチで少し休む、というのが日課でした。緯度の高いストラスブールの夏は日がとても長く、十九時だとまだ全然暗くありません。
共和国広場とは仰々しい名前ですが、小ぢんまりとした美しい広場です。中央にはイチョウの木が植えられていて、秋になると黄金色に燃え上がり、その周りを囲むモクレンは春先に辺りを淡い紫色に染め、訪れる者の目を楽しませます。
私にとってもそうでした。しかしその年の夏は、むしろある記念碑の見えるベンチに腰かけ、それをぼんやりと眺めながら、夕食までの一時を過ごす日が続きました。正確には、記念碑というか慰霊碑です。手を握り合いながら息を引き取る二人の子どもを抱きかかえる母を模ったモニュメントで、一九三六年設置とのことですから、直接的には第一次世界大戦の犠牲者に捧げられているのでしょうが、今日では第二次世界大戦の犠牲者をも悼む石造りの構えです。
この二人の子どもはいったい誰を模っているのでしょうか。名無しですが、出自ははっきりしています。フランス人の子どもとドイツ人の子どもです。そして母は……ストラスブールという街を表しています。
ドイツ国境沿いのこの街は両大戦中、甚大な戦禍に見舞われました。昨日まではライン川に架かる橋を渡り歩いて互いの国を行き来し、助け合って平和に暮らしていた人々が、今日からは睨み合い、そして殺し合う暗い時代を過ごさざるをえなかったことの悲しみと苦しみを、二人の子どもは伝えているわけです。
私はこの慰霊碑を眺めながら、フランスから一万キロメートルも離れたところにある一敗戦国の出自である自分のことを、そしてその自分が勉強しているデカルト、しかも哲学者になる前は兵士だったデカルトのことを否応もなく考えたのでした。
なぜ彼は兵士だったのでしょうか。
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