『生ダラ』を生んだ石橋貴明の一言
編成企画部の事実上の“任期”である2年を身を粉にして働いた土屋は91年、再び制作に戻った。だが、戻ったからといってすぐに番組があるわけではない。手が空いているのならと、命じられるまま、『鳥人間コンテスト』の立ち会いなどを行う宙ぶらりんの状態だった。
そんなある日、とんねるずの石橋貴明からキャピトルホテル東急のラウンジ「ORIGAMI」に呼び出された。
「制作戻ったんだって?」
石橋がそう切り出し、続けた。
「秋から日テレでやってもいいよ」
石橋にしてみれば、土屋が制作に戻った“ご祝儀”的な意味もあっただろう。編成時代、毎週通いつめ関係を深めたものの、番組を始めることができなかったが、制作に戻って遂にとんねるずを日本テレビに連れてくるというミッションを達成することができた。
1991年10月、『とんねるずの生でダラダラいかせて‼』が始まった。生放送でやりたいと主張したのは、とんねるずだった。演出はテリー伊藤。監修には秋元康。プロデューサーは“マリー・アントワネット”などと呼ばれる大井紀子。
「伊藤さんがいて、秋元さんがいて、僕の上には大井さんまでいる。しかも、とんねるずですから。周りはみんな自己主張の強い人ばかり。間に挟まれて、もう大変でしたよ(苦笑)」
しかし、積年の念願がかなって立ち上げた番組を、土屋は一年足らずで離れることになる。思わぬ形で新番組を任されることになったからだ。
一晩で誕生した『電波少年』
翌92年5月末、突然土屋は、編成の加藤光夫から呼び出された。
「明日までに新番組の企画書を持ってきてくれ」
明日まで? そんなムチャな。ムチャはそれだけではなかった。7月からその企画で番組をスタートせよというのだ。残された時間はわずか1カ月。そんな短い準備期間で新番組を立ち上げるなんて、ムチャを通り越し無謀なミッションだった。
実は、それまで放送していた『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』が急遽終了してしまい、その枠を埋めなければならなかったのだ。いわば突貫工事的な穴埋め番組だった。
「なんでもいいから」
加藤は土屋にそう言った。一見、投げやりに聞こえるが、土屋にはそれが嬉しかった。なぜなら、これまで加藤から「なんでもいい」などと言われたことがなかったからだ。たとえば『ガムシャラ十勇士‼』は「『たけし城』のようなもの」を、『恋々‼ときめき倶楽部』は「『ねるとん紅鯨団』のようなもの」を、と加藤に言われて立ち上げた番組だ。けれど、今回は違う。自分に全面的に任されたのだ。たとえそれが切羽詰った事故的なものであったとしても。
おそらく「敗戦処理」のようなものだということは土屋も分かっていた。加藤にとってディレクターとしての土屋は失敗ばかりしている落ちこぼれ中の落ちこぼれ。期待などされていないだろう。だからこそ、土屋は奮起した。
「やったろうじゃん!」
企画書の表紙、仮タイトルにあたる部分にそう書き殴った。
「見たいものを見る、会いたい人に会う、やりたいことをやる」
それが番組のコンセプトだった。
「3カ月限定の番組だから、これを生活の糧に考えるな」
急遽集められたスタッフたちを前に土屋はハッキリと宣言した。
「3カ月で視聴率の結果を出すのは難しい。昔、長嶋茂雄さんが“記録よりも記憶に残る選手”と呼ばれてたけど、“記録よりも記憶に残る番組”を作ろうと思う」(※1)
ディレクターとして番組を支えることとなる〆谷浩斗は、それを聞いて「やりたい放題やるんだ」という強い決意を感じた。こうして1992年7月に始まったのが『進め!電波少年』だった。
出演者は当時ほとんど無名だった松村邦洋と松本明子。企画も出演者も急ごしらえ感は否めなかった。番組放送枠は、『ガキの使い』の前の日曜22時30分からの30分。当初は、ふたつの番組セットでこの枠を「笑撃的電影箱」と呼んでいた。かつて、加藤班として同じワイドショーで共に下積み時代をすごした異端の二人、土屋敏男と菅賢治がここで再び名前を揃えたのだ。
日テレ社長にも「アポなし」
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