全部やれ。

ダウンタウンって誰?『ガキの使い』生みの親が明かす2人の無名時代

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、なぜ帝王・フジテレビを逆転できたのかを描くノンフィクション。
発売を記念して『進め!電波少年』そして『ガキの使いやあらへんで!』という人気番組の誕生秘話を紹介します。

ライブで歌ばかり歌っていたダウンタウン

土屋のターゲットはとんねるずだけではなかった。当時、若者から急速に人気を集めつつあったウッチャンナンチャンにもあたっていた。この時も『元気が出るテレビ』での経験が活きた。

「『元テレ』の打ち合わせでよくニッポン放送に行っていたんです。『オールナイトニッポン』放送前のビートたけしさんに会いに」

だから、ニッポン放送に入ることは比較的容易だった。そして『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』の収録スタジオに“潜入”したのだ。『オールナイトニッポン』のスタジオにテレビ局の関係者が「勉強がしたい」などと訪れることは決して珍しいことではないという。だが、普通は1〜2回来るとそれで終わる。それはそうだ。番組は深夜1〜3時。普通の社会人が通えるような時間ではない。だが、土屋は毎週のように通った。けれど、人見知りの内村光良はもとより、社交的な南原清隆も土屋と積極的に喋ろうとはしなかった。

「彼らも日本テレビの人間が来ること自体は仕方ないと思っていたと思いますけど、フジテレビの人たちに気を遣って喋るのは控えてた感じでしたね。そういう時代でしたから」

それでもめげずに土屋は通い続けた。それが社命だったからだ。一方で、社命とは関係なく張り付いていた相手もいる。ダウンタウンである。

土屋が制作にいた頃、まだ主に関西で活動していたダウンタウンの漫才を見て衝撃を受けた。そのビデオを盟友である菅賢治に見せると、すぐにでも会いに行こうという話になった。

だが、やはりツテも何もない。調べてみると、和歌山でコンサートがあるという。それに二人で行ってみようということになった。しかし、それは想像もよらぬ光景だった。観客は若い女性ばかり。黄色い声援が飛ぶ中、舞台上のダウンタウンは漫才ではなく歌を披露していた。そう、開催されていたのは漫才ライブではなく音楽コンサートだったのだ。仕方がない、歌の合間のMCでその笑いの実力の片鱗を見せてくれるだろう。そんな土屋たちの期待はもろくも崩れた。ダウンタウンはMCをほとんど行わず矢継ぎ早に歌を歌い続けたのだ。実は当時、あまりにも関西でアイドル的人気が出すぎて、ライブをやれば漫才なんか一切聞いてもらえない。そんな状況に嫌気が差して、ライブでお笑いをすることをやめていたのだ。

楽屋で挨拶を交わしてもダウンタウンの二人は素っ気ない対応だった。それはそうだ。いきなり見知らぬ男二人がやってきたのだ。しかし、このまま帰るわけにはいかない。当時、彼らの事実上のマネージャーを務めていた大崎洋の計らいで二人は大阪へ帰るバスに同乗させてもらった。浜田雅功の隣には菅が、松本人志の隣には土屋が陣取り、自分たちがビデオで見たダウンタウンの漫才がいかに凄かったかを熱弁した。

「単なるファン」だった、と菅は述懐する。

「日本テレビっていう看板を背負って会えるファンでしたから」(※1)

その後、ダウンタウンがウッチャンナンチャンらとフジテレビで『夢で逢えたら』を始めると、やはり土屋は“友達”としてその収録現場にも通った。極度の人見知りだった松本にとって土屋は東京で数少ない頼れる相手だった。松本から「11時くらいに終わる」と連絡が来れば、その30分前にフジテレビを訪れる。当時、自分のことを日本テレビの社員だと認識していた番組スタッフはあまりいなかったのでは、と土屋は自嘲する。土屋の顔を見ると松本が挨拶するため、吉本興業の人間か、座付き作家かぐらいに思われていたのではないか、と。収録が終わると、土屋は“身寄り”がない松本をご飯に連れて行って親交を深めていった。

そのような生活を送る中でフジテレビ本隊の現場を目の当たりにして、相手の強大さを実感したという。

「別世界でした。勝てる時代が来るなんて思ってない時代でしたから。10年は勝てないと思った。だから、使用人崩れが間違って貴族の館に入ってしまった感じでしたね(笑)」

さんまには"プール"を差し入れ

タレントたちに張り付いたのは、編成企画のメンバーだけではない。芸能プロダクションと深いつながりがあるのは制作でもベテランだけ。若手にはそういったコネクションはなかった。だから、制作の若い世代は、イチからタレント本人と関係性を作るしかなかったのだ。

たとえば、吉川圭三、菅賢治、小杉善信の3人は、明石家さんまに張り付いた。やはり他局であるTBSラジオ『明石家さんまのおしゃべりツバメ返し』の収録スタジオに通った。

当初、さんまからは、相手にもされなかった。挨拶をしても一瞥されるだけ。

菅にとって、さんまは“生きる糧”だった。前章で触れたように菅は『それは秘密です‼』のADとしてこの業界に足を踏み入れた。だが、テレビの仕事は、ミュージシャンの夢を諦め、自堕落な生活を送っていた菅が、このままではいけないと、仕方なくはじめた仕事だった。「いつこの仕事やめようか……」、そればかり考えている日々だったという(※2)

月給7万円の安月給で、家賃3万円の風呂なし、共同トイレの木造アパートの一室。その狭くボロい部屋には似つかわしくない代物があった。新品のビデオデッキである。『オレたちひょうきん族』を見るために生活費を切り詰めて買ったものだった。録画した『ひょうきん族』をテープが擦り切れるまで繰り返し見て、さんまの面白さに酔いしれていた。

「ああ、こんな人といつか仕事してみたい」(※2)

その思いが、菅にテレビマンを辞めることを踏みとどまらせていた。

あの頃から7年余りの月日が流れた。目の前のラジオブースにはその明石家さんまがいる。しかし、そこには会話も交わしてくれないという厳しい現実が横たわっていた。

そもそもさんまは日本テレビとはソリが合わないと感じていた。それは若い頃に出演した番組に原因があった。その番組プロデューサーが居丈高にさんまに接していたのだ。だから特番を除けば、さんまは日本テレビに出演することがなくなっていた。

ある日、フジテレビから日頃の貢献を讃えられ全自動麻雀卓が贈られた。それに気を良くしたさんまが、ラジオで話し始めた。

「この際やから、他の局からも何か持ってこさせよう……。日本テレビには麻雀部屋が寒いから、ストーブもらおうか。テレ朝は金がないから湯飲み茶碗で許したろう。あっ、電通は金持ってるから、家の庭にプール作ってもらおうか」

もちろん、さんま流のシャレだ。だが、これを聴いた菅は、「チャンスだ!」と思った(※2)。菅たちはすぐにストーブを準備した。でも、これだけでは弱い。電通が“要求”されたプールも持っていこう。

「だけど、どうやってさんまさんにプールを差し上げればいいんだ?」

当然ながらちゃんとしたプールを用意することなんてできない。思案を重ねた吉川は東急ハンズに向かった。子供用のビニールプールを買うためだ。ついでに空気入れも買った。それを大きな箱に仰々しく入れた。準備は整った。

「こんにちは! 日テレです!」

菅と吉川がラジオブースにそれを持っていくと、さんまは一瞬絶句するが、すぐに理解し、「日テレにもシャレがわかるヤツいるな〜」と豪快に笑った。

「それでようやく土俵ができた感じでしたね」

小杉がそう述懐するように、その後、さんまから「日テレで一番腰の低い3人組」などとイジられるようになっていった(※3)

この“さんま詣で”が以前も触れた『さんま・一機のイッチョカミでやんす』開始をもたらし、その後の『恋のから騒ぎ』や『踊る!さんま御殿‼』へとつながっていくのだ。

「ガキの使いやあらへんで!!」最初の企画書

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全部やれ。

てれびのスキマ(戸部田誠)

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。 しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。 「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、 なぜ帝王・フジ...もっと読む

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