「樋口さんの子供が欲しい。一切迷惑をかけません。お金もいらないし、籍も入れなくていいから」
そんな三百代言・三輪記子の口車にまんまと乗って、1年半が経ちました。齢40を過ぎて初めて東京を離れ、結婚をし、多忙な妻に代わり、赤ん坊のお世話をしています。
これまで生きてきて、小説を書くのがいちばん大変なことだと思っていたら、子供を育てることのほうが比較にならないほどハードでした。
それに加えて、エキセントリックな妻による産後うつからの口撃憤怒罵倒呪詛袋叩きに日夜翻弄されています。
2016年5月から17年4月まで、週刊新潮で子育て奮闘記を1年間連載していましたが、ハードボイルド作家のイメージ凋落は甚だしかったようです。
「おまえ本当に『さらば雑司ヶ谷』の樋口毅宏か!? 戦慄のチンポ斬り拷問シーンを書いた作者なのか!? 東大卒の鬼嫁弁護士に去勢されているのはおまえのほうじゃないか!」
「貴様は家庭に入って危険な匂いが無くなった。人間が丸くなってもうおしまいだな。『民宿雪国』で流した涙を返せ」
「樋口先生の御高著をすべて拝読しています。これまでブックオフと図書館で済ませてきて心から良かったと思いました」
ありがとな。おまえらからもらった手紙、ちゃんと保存してるぞ。
さあダイアリーを再開しよう。育児日記とは名ばかりの、悪妻暴露日記を——。
2017年1月2日
およそ10年前、おちこぼれだった妻は司法試験に落ち続け、その間に試験制度が変わった。司法試験を受ける資格を得るために、大学院に2年間通わなければならなくなった。
この日は妻が立命館大学法科大学院の学生だったときの同級生と焼肉。土佐剛太さんは妻と同じく三十路過ぎて学校に通っていたため牢名主のような存在だったという。
妻と知り合ってまだ3年に満たない僕は、弁護士以前の彼女がどんな感じだったのか訊いてみた。
「ふさちゃんはどんな人でしたか?」
「あのつらい時代に息抜き的な存在でした。あの先生はちんぽが小さいとか、あの先生は口では人権とか立派なことを言ってるけどセックスはえげつないに決まってるとか」
変わらねえな、おい。
「三輪ちゃんは人を見る目がありました。実際講師のひとりはその後学校から追放されました。しかし樋口さん、よくぞこんな爆弾と結婚されましたね……」
僕は土佐さんの手を取った。
「人身御供という言葉をご存知ですか。誰かが人柱にならなくてはならないんです。弁護士さんならご存知でしょう。社会は常に誰かの犠牲によって成り立っています」
気が付いたら涙ぐんでた。注文を取ったり肉皿を持ってきたりしていた店員さんはどう思っていただろう。かずふみは付き合いきれなかったようで、途中から寝ていた。
1月4日
町山智浩さんから韓国で買った子供服を送って頂く。胸には大きくトトロの刺繍!
ドキュメンタリー映画監督の松江哲明さんのお子さんにも色違いのトレーナーがプレゼントされたようだ。今からトトロを着たふたりを会わせるのが楽しみ。
かずふみよ、もうちょっと大きくなったら教えてあげる。トトロを描いたおじいちゃんはね、ロリコンなんだよ!
1月5日
ある人からメールが届く。
年末に中高時代の友人とご飯を食べたら、こんなことを言う人がいたそうだ。
「週刊新潮に載ってる子育て日記がすっごく面白いの知ってる? 旦那が作家で子育てメイン担当らしいんだけど、エセイクメンっぽくてさー。なんかゲスい匂いがするんだよー」
この人が誰かは知らないし、一生会うこともないだろう。だけど俺はあんたの旦那より赤ん坊のオムツを替えてるし、ミルクを作っているし、愛人もいないし、カミさんを抱いているよ。
「金を稼いでるし」と言わないところが俺の思慮深いところだよなー。
妻がレギュラー出演中のTBS「ビビット」を観る。
妊婦が出ていると思ったら妻だった。
53キロからピーク時は73キロ。現在は60キロまで落としたが……。
うーん、妊婦なき妊婦当てゲーム。
1月11日
かずのお弁当を作る日。温めたごはんにふりかけ。セブンの卵焼き。冷凍食品の惣菜。食べやすいサイズに切った豚肉の炒め物。手抜きの内容ですまない。
それでも保育士さんから「かずちゃん完食しましたよ」と聞かされて安堵。
「それときょう、おまるデビューをしました」
嬉しい~。パパの立ちションを観察してきた効果かしら。
1月14日
cakesのナカジが仕事で京都に来たついでに、拙宅に顔を出してくれた。
彼とはお互い三茶に住んでいた頃、やんちゃをしてきた仲。今ではふたりともパパになった。
ナカジの娘さんは今月2歳。うちのかずふみは1歳2ヶ月だが想像がつかない。どんな風になっているのだろう。
「こないだ娘とお風呂に入ったら、ちんこを指差して、〝パパこれなーに?〟と訊かれて、答えられなかったですよ」
教えてあげたらいいじゃん、「喜びも悲しみも詰まった棒だよ」って。
1月16日
妻と同じ事務所の藤井弁護士の新居パーティーへ。材料費に糸目をつけない手料理に舌鼓を打つ。ハッピーな空間。そこにかずふみが大量ゲロ。新品の絨毯を汚す。
かずふみ、よくやった。
1月17日
咳のしすぎで人生初の中耳炎。妻もかずふみもずっと咳が止まらないため、家族3人で呼吸器内科を訪れる。かずふみが軽症でホッとする。
妻は咳喘息の診断。それにしては痩せないような。血液検査の結果、コレステロール数値が異常に高い。動脈硬化の可能性があるとわかった。心配でならない。
ふさこのお父さんは脳梗塞に大腸ガンを併発し、お母さんが介護する生活が10年近い。
ふさこはお父さんに似ていると聞かされる。顔だけでなく、酒飲みで、かつてはヘビースモーカーだったところなども。
ふさこは呆れるほど水を飲まない。朝起きてからのコップ一杯、夜寝る前にコップ一杯で、突然の脳の病気はかなり防げる。しつこいぐらいに言い聞かすのだが、面倒臭がり屋のふさこは目の前にペットボトルを差し出しても、うるさがって口に含もうとしない。
来月の再検査次第では薬を服用しなければならなくなる。そうなると今後、ふたりめの子作りにも影響を及ばすのに。
帰り道入ったカレー屋「240」が大当たり。ふさこは大盛りを我慢して、3種盛りをかき込む。
こちらの心配をよそに、明後日から東京のグルメスケジュールを立てている。
「お医者さんがね、食べすぎは良くないって」
ん~諸悪の根源はデブ。