一故人

野中広務—彼は何と闘い続けたのか

その辣腕から「政界のスナイパー」と称された野中広務。彼の生涯は闘いの連続でもありました。加藤の乱を非情に鎮圧する強面ぶりと、沖縄などへ寄せた優しいまなざしの両面から、彼の歩みを見ていきます。

野村克也との共著で語った「加藤の乱」

元衆院議員の野中広務(2018年1月26日没、92歳)は、内閣官房長官や自民党幹事長などを務め辣腕を振るった。その野中は政界引退後の2007年、当時プロ野球の楽天の監督だった野村克也と『憎まれ役』と題して共著を刊行している。異色の組み合わせだが、両者には意外にも共通点が多い。京都府でも山陰道に属する地域の出身であり、また、野村はテスト生からプロ入りし、野中は地方政界から57歳にして国政に進出したという具合に、いずれも叩き上げである。そして、野村には長嶋茂雄、野中には小泉純一郎と、圧倒的な人気を誇る好敵手が存在し、時に「悪役」視される損な役割を引き受けさせられた。『憎まれ役』というタイトルはそこから来ている。

この本で野中は、野村の「負けに不思議の負けなし」という言葉を引きながら、あるできごとについて述懐している。それは、2000年11月、当時の森喜朗内閣に対し野党が不信任案を提出するに際し、与党の自民党内から加藤紘一と山崎拓の両派が同調しようとした「加藤の乱」のことだ。

当時、自民党幹事長だった野中は、内閣を守る立場から、まず分析と情報収集に努めた。そして、加藤らの行動を予測し、可能性として「自民党を分裂させて民主党など野党と結託し、新しい政権をつくる」「分裂をちらつかせて森首相に退陣をうながし、首相の座を得る」という2つのシナリオを想定した。このうち後者のシナリオは、前者のシナリオが実行可能な場合にのみ選択できる。そこで野中は実際に可能なのか徹底分析することにした。

具体的には、加藤・山崎に追従して自民党を出た場合、両派の議員たちは選挙に勝てるかどうかを考えてみた。すべての選挙区をリストアップして調べてみると、2つの派閥の8割の議員が民主党候補と争っていた。彼らが自民党を離党した場合、自民党の公認はとれないので、選挙を戦うことは困難だ。民主党と加藤・山崎派が合併せずに、連立するとしても、選挙で激烈に戦ったあとでは連立などできるものではない。そう判断した瞬間、加藤派の離党は無理で、敗北は避けられないと野中にはわかったという。

このあと衆院での不信任案の決議までに、野中は加藤・山崎派の切り崩しに成功、不信任案に賛成票を投じるつもりだった加藤たちを断念させる。まさに「負けに不思議の負けなし」であった。ただ、野中個人としては、かつて橋本龍太郎内閣で党幹事長を務めた加藤を幹事長代理としてサポートし、またリベラル派の首相候補として彼に期待していただけに、複雑な思いであった。

地方政界から思いがけず国政へ進出

野中広務は大正末期の1925年10月、京都府園部町(現・南丹市)の農家の長男として生まれた。地元の旧制中学(現在の高校)を卒業すると国鉄(現在のJR)の大阪鉄道管理局に就職。戦時中には召集され、高知の陸軍の部隊で終戦を迎える。このとき、敵に辱めを受ける前に割腹自殺しようとした野中たち仲間を、彼らの教官だった将校が力ずくで制止すると、《この国が再び戦争に陥らないように生き抜いてくれるのが、若いお前たちに託す俺の言葉なんだ》と諭したという(『思想地図』vol.5)。このことは政治家となってから平和を訴え続けた野中の原点となった。

終戦後、国鉄に復帰するとともに、戦争で荒れ果てた郷里を再興しようと地元の青年団活動に没入する。当時はマルキシズムが若者たちの心をとらえ、共産党が勢いを増していたころだが、野中はその支配を嫌った。これというのも、戦前の体験から、《一色に束ねられた組織は、必ず間違いを起こす。迎合しては駄目だ。自分の頭で考えなければ》という信条を持つようになっていたからだ(野中広務『私は闘う』)。

1951年、青年団活動の仲間たちの応援で園部町の町会議員選挙に出馬、25歳にして初当選する。以後、33歳で町長、41歳のときには京都府会議員に当選、地方政治家として地歩を固めていく。当時の京都府は蜷川虎雄知事のもと共産党が大半の組織を牛耳っていた。これに野中は闘いを挑み続け、1978年の府知事選では自民党の参院議員だった林田悠紀夫を擁立して勝利し、28年間続いた蜷川府政にピリオドを打つ。林田知事の就任にあたっては、府議時代の辣腕を買われ、副知事に抜擢される。このとき、蜷川府政のもとで確立された共産党支配体制を根こそぎから一掃するべく、従わない者は徹底的に干す一方で、《これはという意見があると、それが野党から出たものでもかまわずに使っていた。議会運営のためだったろうが、その意味では今と変わらない本当の現実主義者なんですよ》との当時の府職員の証言もある(『日経ビジネス』1999年5月17日号)。そのとおり、政治家・野中の原型は、地方政界で培われたところが大きい。

もっとも、1982年、副知事を1期で終えると、57歳になっていた野中は政治の世界からすっぱり足を洗い、府会議員時代に手がけた重度障碍者の施設で残りの人生を捧げるつもりでいた。それが国政に進出することになったのは、翌83年、旧京都2区で、元文部大臣の谷垣専一、元衆院議長の前尾繁三郎と自民党議員があいついで亡くなり、その補欠選挙に前尾の後継として祭り上げられたためだ。その開票時には、まず谷垣の長男・禎一(のちの自民党総裁)のトップ当選が確実となり、残る1議席を野中と共産党の候補が争った。一旦は地元のテレビ局が共産党の当選確実と伝えたものの、その後、選挙管理委員会の手違いで地元・園部町に大量の未開票が残っていたことがわかり、結果的に逆転勝利を収めることになる。

議事録から削除された「大政翼賛会」発言

1994年6月、社会党首班の村山富市内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣したとき、野中は68歳になっていた。彼が一般的に注目されるようになったのもこのころからだ。翌95年には、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件などあいつぐ大事件への対処に追われた。同年9月には橋本龍太郎が自民党総裁(翌年1月に首相就任)に就くと、党の幹事長代理となっている。

幹事長代理は本来なら大きな権限のないポストだが、野中は幹事長の加藤紘一や政務調査会長の山崎拓に匹敵する活躍ぶりを示し、「裏の幹事長」と呼ばれるほどの実力者となる。国政進出が遅かったとはいえ、1996年の総選挙後の時点で当選6回、衆議院歴13年でここまでのし上がったことは、政界の序列からすれば異例の出世だった。このあと、98年の参院選で自民党が敗北を喫し、橋本が首相を辞任すると、後継の小渕恵三政権誕生の立役者となり、官房長官として内閣を支える。さらに99年に小渕が急病で倒れると、自らを含む数人の党幹部で集まり、次の首相を森喜朗に決め、その政権下で党幹事長を務めた。

この間、橋本政権では、衆院安保特別委員長を務め、沖縄米軍用地特別措置法改正案をとりまとめた。沖縄ではこのころ、1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに米軍基地の見直しを求める声が強まっていた。そのなかで基地の置かれた土地を所有する地主が、米軍との賃借契約の更新を拒否するという事態があいつぐ。それでも米軍は、県知事や市町村長などの地方公共団体が代理で契約に署名すれば、そのまま土地の使用を続けることができた。これを定めたのが沖縄米軍用地特別措置法である。しかし、当時の沖縄県の大田昌秀知事は代理署名を拒否すると表明、日本政府と対立した。

その後、96年9月に、大田は橋本首相の説得で代理署名拒否の姿勢を撤回し、一応の決着を見る。とはいえ、政府内では、今後同じような事態が起きないよう手を打っておこうという動きが出てきた。そのため検討されたのが、もし一定の期限内に県が土地使用の手続きをとらない場合、国が裁決を代行できるものへと特措法を一部改正することであった。

特措法改正案は、衆院安保委員会での審議を経て衆議院に提出され、97年4月11日、議員の9割の賛成で可決にいたる。このとき野中は議場で委員長報告を読みながら、不意に、自分が軍国主義に傾斜してゆく戦前の日本の国会の場にいるかのような錯覚に襲われる。圧倒的多数による法案の成立に、組織が一色に束ねられる怖さを感じたためだ。ここから彼は思わず、次のような言葉を口にする。

《この法案が日米安保体制の堅持の新しい一歩を印すとともに、大変な痛みと犠牲と傷を負ってきた沖縄の振興の新しいスタートになりますように。そして今、多くの皆さんの賛同を得て成立しようとしているが、どうぞこの法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないように。/そして古い苦しい時代を生きてきた人間として、今回の審議がどうぞ再び大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをしたい》(野中広務『老兵は死なず』

この発言に対し、法案成立に努力してきた官房長官の梶山静六には「何であんなことを言うんだ」と怒鳴られ、さらに当時の最大野党・新進党の求めで、不規則発言として議事録から削除することが衆院議員運営委員会で決まった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

ksphagnum 国政進出が50代後半とは知らなかったな。若い頃から国会議員をやっていたような印象があった。 1年以上前 replyretweetfavorite

taizona “《一色に束ねられた組織は、必ず間違いを起こす。迎合しては駄目だ。自分の頭で考えなければ》” https://t.co/e49udSEwvx 1年以上前 replyretweetfavorite

consaba 近藤正高 「彼としてはいずれの行動も潮目を見て、最善と信じる対応をとったにすぎないが、その結果生まれた状況はけっして望んだものではなかった。」 1年以上前 replyretweetfavorite

rikitohime 只今の混乱に影響力が無かった事は無念だったのか? 1年以上前 replyretweetfavorite