本書を最後までお読みくださりありがとうございました。
本書は、2010年に刊行した『なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?——これからを幸せに生き抜くための新・資本論』の続編に当たります。前著では「お金のピラミッド」という枠組みを使ってお金の仕組みとその中での生き方を提示しました。その後、7年の歳月をかけて書かれた本書では「お金の歴史と未来」に焦点をあて、そこから導き出される21世紀の生き方を提唱しています。ベースにしたのは東京大学大学院修士論文である「時間通貨とネットワーク贈与経済に関する研究」(山口揚平・2015)です。本書の試みが成功したかはまだわかりませんがその内容が少しでもみなさんのお役に立てば著者として幸甚です。忌憚ないご意見・温かいご感想をいつでもお待ちしております。
さて、会社とは何か?(『企業分析力養成講座』日本実業出版社)、経済(投資)とは何か?(『ほんとうの株のしくみ』PHP研究所)、お金とは何か?(本書)という三つの書籍の刊行によって社会の仕組みを考える私の思索の旅はひとまず終わりました。
この一連の旅の中でわかったことは「資本や貨幣に逆らうのはやめた方がいい」ということです。
かのマルクスは大英図書館に30年以上ひきこもってあらゆる書物を読み込んだ上で、『資本論』を書きました。いわく「あぁ資本がすべてのみこんでゆく、人々の労働さえも『商品』になってしまう。人は機械化され搾取され匿名のものになってしまう……」そして人道的・倫理的な観点からその世界を否定しました(マルクスの主張の本質はもちろんそれではないけれど、当時の人々はこのように読み取りました)。古今東西のあらゆる経済学者は、あらゆる書物を読み、学び、思考した上で最後に必ず〝日和る〞ように思えます。アダム・スミスしかり、ミル、ハイエクしかり、そしてあのケインズでさえも「資本に抗ずる」ことを考えるのです。
最近ではジャック・アタリやトマ・ピケッティもそうです。メディアも含め倫理的・人道的主張へと論を落ち着かせようとしているように私には思えます。なぜならそれこそが彼らが経済学者になる理由だからです(私もそうです)。しかし残念ながら資本を否定したまさにそのタイミングに彼らの学問は死ぬのです。それまでのどんなに精緻な分析も定量的解析も深遠な洞察も無に帰するのです。
経済の論点は、いつも同じです。すなわち格差の問題、そして資本がすべてを飲み込んで画一化して無機化してゆくという点です。このどちらも本質的には同じ問題です。
それは、我々が有機的だと思っているものが無機化することの問題です。格差は、全体論としては人間関係の断絶によって社会の危機となり、個別論としては人の生命の危機になるということです。
この世界は未来永劫に資本の波から逃れることはできません。繰り返しになりますが私が経済学を学んで悟ったことは、資本を否定することの愚かさでした。貨幣とその蓄積である資本は、数字というもっとも汎用的、逆に言えば抽象的・匿名的な財の形をとった〝完全言語〞です。その汎用性ゆえに、人々の最終的な欲求はこの究極の財である貨幣の獲得に向かわざるを得ません(ただし、本書で述べた上位次元欲求はお金では買えません)。
その上で人はどうあるべきか、なにをやるべきか? それは三つだと私は思います。 一つには資本の波を食い止めること(規制)、二つめは、飲み込まれた人を助けること(福祉)、そして三つめは、新たな有機物を発見し、創り出すことです。一と二は、政府、NGO、NPOが地球規模でやっていることです。この資本を食い止める行為は中世で言えば城を作り国民を護る行為です。しかしそれ以上に資本を使ったビジネスが世界を無機化してゆくスピードの方が速いのが現在です。ですから、現代を資本主義だとか社会主義がよいとかいうのは馬鹿げていると考えます。
20世紀のビジネスとは本質的に、無機化する行為でした。すなわち、標準化によってプロセスを単純化し、画一化によって商品を匿名化し、中毒化によって顧客の生命を無機化することです。二〇世紀のビジネスとは端的に言えば、「標準化・画一化・中毒化」することです。貨幣と資本という切断機によって、有機物を無機物に変える行為です。これを冷静に見据えた上で、人は、三つ目の、あらたな有機物を発見し、創造する行為に向かうのです。
私が言いたいのは物事を無機化することがよくないということではありません。そうではなく、圧倒的なスピードとパワーで無機化する時代に、有機化や創造に焦点を当てて生きて欲しいということです。
大切なのは、無機・有機の「差」が余裕であり、うるおいとなるということを心に留めておくことです。都会でいくらたくさん稼いでも(無機化力が強くても)、有機性、例えば人間関係が薄かったり、自然や食、マインドの安定がなければ豊かではないし、逆に、田舎で有機物が溢れていても、無機化するパワー(資本による撹拌運動)が弱ければやはり豊かではないのです。稼げばいい、穏やかであればいい、という一元的な考えでなく、有機、無機のバランスの中に、動的な生命としての豊かさがあるということです。
「おわりに」まで読んでくださった読者のみなさんに、最後にお伝えしたいのは以下の三つです。一つ、資本や貨幣を否定することは無価値であること。二つ、有機物の発見と創造に尽くすこと。そして三つ、生活経済において有機・無機の調和を心がけること、です。
私はこれからも、生命とは何か? 人間とは何か? はたまた我々は一体なんなのか? という真理の追求に向かって哲学の旅を続けて参ります。