■変わらない感情を描く
高頭佐和子
角田光代さんの小説を初めて読んでから20年以上経つ。好きな作家はたくさんいるが、読むたびに恐いと思うのは角田さんの小説だけだ。衝動的に犯罪を犯したり、やめておいた方がよさそうな恋愛にのめりこんでいく主人公たちは、平和な人生を送りたい私としては、あまり共感できないタイプの人たちだ。なのに、読んでいるうちに小説から溢れ出てきた彼らの感情が頭の中にじわーっと広がってきて、それが自分のものなのか、小説の中の人のものなのかわからなくなってくる。読みながらその恐怖にハッとしてしまう。
その角田さんが、「源氏物語」の現代語訳を手がけると聞いて楽しみにしていた。読み始めてから今日まで、私はしょっちゅう「源氏物語」のことを考えている。
御簾(みす)の奥に暮らすさまざまな個性の女性たちと、そんな女性たちを求めずにはいられない美しい皇子・光源氏。馴染みのある今の時代の言葉で訳された「源氏物語」を読んでいると、千年以上も前に描かれた小説の中にいる遠い存在の彼らの感情が、角田さんの小説を読む時と同じように自分の中に流れ込んでくる。いけないとわかっていても会わずにはいられなかったり、大切な人を失い引き裂かれるような悲しみを味わったり…。どんなに長い時が流れ人の生き方や暮らし方が変わっても、だれかを愛したり慈しむ気持ちや、嫉妬心や自尊心、喜びや悲しみという感情は変わることがないのだろう。
どんな時代や立場に生きていても、恋にときめいたり、報われぬ思いに苦しんだり、進むべき方向に悩んだりしながら、せいいっぱい生きればいいのだと、紫式部と角田光代さんが教えてくれたような気がしている。完結までにはまだまだ時間がかかりそうだが、売り場で著者を応援しつつ、たくさんの読者とともに完結を待ちたい。
この仕事を終えた角田さんは、どんな小説を書くのだろう? それがとても楽しみである。
(書店員)
■生々し活き活きとした平安情緒
内田剛
平成からその次の年号へ……時代の転換点であるこのタイミングで角田光代訳『源氏物語』が刊行されるのは本当に意義が深い。
人気と実力を兼ね備えた平成を代表する作家として角田光代を最上位に挙げることに多くの読者は異論ないだろう。数々の文学賞をものにし、読者ばかりか書評家、作家たちからも一目置かれる特別な存在。書店員である自分にとっても角田光代は年齢が近いだけでなく、最も惚れこんだ作家である。同時代に生まれその作品群を読み、読者に届けることが出来るという現実を誇りに思っている。
人気絶頂期の角田光代が長期にわたって新作小説の執筆を止め、日本文学全集のプロジェクトで源氏物語を訳す、というニュースは出版業界に衝撃を与えた。一人のファンとしてもしばらく新作が読めなくなるのかという角田ロスの感情を抑えることは難しかった。
しかしそのネガティブな思いは杞憂であった。『源氏物語(上)』の翻訳を読んでまず感じたのは作家・角田光代の凄みである。世界に冠たる大長編恋愛小説と真向から対峙し、ひるむことなく現代に蘇らせた試みは他のどの作家にも真似は出来ないだろう。
原文をまったく損なうことなく圧倒的な読みやすさで再現し、生々しく活き活きとした平安情緒が紙面に踊る。一千年の時を超えて過去と現在が見事に溶け合い、古典の面白さを余すところなく伝えてくれる。平安の女御たちが奪い合うように『源氏物語』を読み耽った如く、貪るような読書体験を味わえた。
しかし物語のクライマックスはこれからだ。さらに筆の乗った中巻と下巻の刊行が今から楽しみでならない。完結されたその時は元号が変わっている。これも歴史の引き寄せであろう。『源氏物語』の翻訳という作家生命を懸けた大事業をなし終えた角田光代はさらにパワーアップし、数々の名作を世に送り出し、次の世代をリードする作家となるに違いない。
その日を夢見て僕は本を売り続けたい。
(三省堂書店)
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