妖怪処刑人 小泉ハーン

片眼を失った日。世界の半分を失った日。

一九世紀中頃のダブリン。聖カスバーツ校に通うラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲は、同時代にダブリンに生きたもう一人の狩人、ブラム・ストーカーと出会い、妖怪狩りの道へと進んでゆく……。
◆伝奇アクションホラー小説『妖怪処刑人 小泉ハーン』より「少年時代」編第1回!


 彼はトーマスの手を引いて逃げた。

 木の根に足を取られ、顔から転倒した。そこには岩があった。

 ごりッという痛み、それから骨と石がぶつかる嫌な感触。

 目の前の火花。世界の半分が消えてゆく。

 左目から光が失われてゆく。

 彼はうめき、膝立ちになった。顔に触れ、左手を見た。それは血で真っ赤に染まっていた。血だけではなかった。涙でもない。何か流れてはいけないものが、左目から流れ出しているのだと直感した。

 こんな事があっていいはずがない。

 ハーンは右目を閉じた。何も見えない。そして絶望した。左目が失われたのだと悟った。これから先、本を読むことも、美しい故郷の景色を眺めることも、家族や友達の顔を見ることも。

「僕の目が……! 僕の目が……!」

 大切なものを台無しにしてしまった。母さんからもらった大切なものを。

 その恐怖がハーン少年の頭を支配していた。

「ハハハハハハハ! ハハハハハハハ! ハハハハハハハ!」

「ウーフフフフフフフ! 何をそんな深刻そうにしているんです? ちょっとした悪戯ですよ! ウーフフフフフフフフ! アーハハハハハハハハハハハ!」

「ハーン! たッ、助けて! ハーン!」

 少し離れた柳の木の下で、トーマスは十字架の首飾りを掲げていた。だがブギーマンたちは十字架を恐れない。神の名も、救いの御子の名も、聖書も、そこに記された言葉も、夜の怪物たちには通用しないのだ。

「ハハハハハハハ! ハハハハハハハ! アーハハハハハハハ!」

 ブギーマンたちの笑い声が林の中に響いた。カンテラの炎が彼らを照らし、その長い影を林の木々に浮かび上がらせた。影は野蛮に躍り、揺らめいていた。

「アイエエエエエエ! アイエーエエエエエエエエエ!」

 トーマスの悲痛な叫び声が聞こえた。誰も助けには来なかった。

 やがてハーンの中で、絶望は激しい怒りへと変わった。




 ……忌々しい記憶とともに、左眼窩の奥が疼いた。肌寒い、霧雨の秋の日だった。空は灰色で、ダブリンに立ち並ぶ石造りの建物はどれも湿り、その威容を増していた。

「あれから、もう一年か……」

 黒い眼帯をかけた少年、ラフカディオ・ハーンは、正門と表通りに煌々と輝くアーク灯の光を疎みながら、聖カスバーツ中学校の裏門を出た。

 そこで彼は、思いがけない客と出会った。インバネス外套に鍔広帽の、見慣れぬ男であった。

「お前がハーンだな? パトリック・ラフカディオ・ハーン」

 男が近づき、声をかけた。

 ハーンは警戒し、身構えた。

 真っ先に思いついたのは、警察の可能性だった。

 だが大人の男ではない。ハーンは速やかに相手を観察する。立てた襟と帽子の陰で顔はよく見えなかったが、その声から、ハーンよりも二つ三つほど歳上の学生……高校生か大学生だろうと思われた。体つきは良い。相当鍛えている。コートを着ていても解る。下手に動かないほうがいい。

「そうだけど……」

 ハーンは陰気な目つきで返した。その右目に、深い疑念と憎悪を滲ませながら。

「あなた誰です? 僕に関わらないほうがいいですよ。呪われているんです」

「俺の名は、ブラム」

 有無を言わさぬ、逞しい声だった。彼はハーンの前に立ちふさがって行く手を阻むばかりか、厚手の革手袋を外し、握手を求めてきた。

「ブラム・ストーカーだ」

「ブラム・ストーカー?」

 ハーンは握手には応じたものの、未だ警戒心は解かず、露骨に訝しむような顔で言った。

「以前に会ったことが?」

「いや、ない。お前は俺の事を知らないだろう。だが俺はお前を知っている。お前の行動に強い興味を持った」

「どういう意味です?」

「まあ歩きながら話そうぜ。立ち話をしてると目立つだろ」

 ブラムは横に立ち、ハーンの背中を軽く叩いた。

「トリニティ大学図書館で、特定の分野に属する本ばかりがゴッソリと借りられていた。そうとう特殊な分野だ。そんな事をする奴はいまどき珍しい」

「本……?」

 小脇に書物を抱えたハーンの手に、汗が滲み始めた。

 そして確信した。このブラムという男は、何かが妙だ。いや、完全におかしい。

「そうだ。具体的に言うなら、アイルランドに関する歴史資料。それも、かなりマニアックなやつをな。歴史や神話伝承に興味があるのかと思えば、解剖学や精神医学、さらには格闘術や銃火器の扱いに関する最新の文献……」

「それがどうしたんです? 僕が何に興味を持とうと勝手でしょう?」

「そりゃあ確かにお前の勝手だ。だが俺は気になったんで、後をつけた。そして、聖カスバーツ中学の奴だと解った。で、色々調べさせてもらって、益々興味が湧いたというわけだ」

「そうですか。解りました。急いでいるので失礼します」

「まあ待てよ。お前をみすみす死なせるわけにはいかないんだ」

 ブラム・ストーカーは、酒飲みの大人が相棒にくだを巻くように、ハーンの肩を組んでグイと引き寄せた。コート越しでも、鍛え上げられたその筋肉を感じ取れた。そして胸元に隠した鋼鉄の重みを。

 このブラムという男は銃を持っている。

 ハーンは直感した。緊張で胃が鉛のように重くなった。

「僕が、死ぬ……?」

「体はそれなりに鍛えてるようだが、全く足りない」

 ブラムは身体検査めいてハーンの腕や肩、胸などを叩きながら言った。

「お前は内側に凄まじい破壊衝動と暴力性を抱えている。それはいいことだ。奴らに対抗するなら、そのくらいの気概(ガッツ)がなけりゃあな。……だが、その精神が肉体と全く釣り合っていない。鍛え方が足りない」

「どういう意味です? 僕はいずれ旅行文筆家として身を立てるつもりなんです。だから体を鍛え、広い知識を学ぼうと思って、図書館でいろいろな本を。ですから、あなたが何を言ってるのか、皆目見当が……」

 ハーンの目は泳ぎ、助けを求める相手がいないかどうか通りを探した。

「どうやったかは知らんが、〝奴ら〟を運良く狩り殺したな……」

 不意にブラムの声色が変わった。押し殺した恐ろしい声でそう囁いた。

 隠していた秘密を言い当てられ、ハーンは小さく身震いした。トーマス以外の誰も、警察も、教師も、家族や親類でさえも信じてくれなかった、あの暗い秘密を。

「奴ら……?」

 ハーン少年はシラを切り通そうとしたが、無駄だった。

「そう、〝奴ら〟だ。お前はその一匹を狩り殺した。運良くな。だが狩り漏らした奴がいる。お前はそれを憎み、追っている。追いつめて、狩り殺し、奴らを根絶やしにしようとしている……! そうだよな?」

「何故それを……!」

「何故ェ?」

 ブラムは拍子抜けしたような声で言った。

「さっきも言ったろ。俺はお前の事を調べ尽くしてるんだよ。行き先も解ってる。今日もまたトリニティ大学図書館だな」

「……そうです」

「俺もこれから向かう。来いよ。特別閲覧室に案内してやる。ケルズの書を見せてやる」

「ケルズの書を?」

 ハーンは訝しんだ。ケルズの書は八世紀に作られた国宝級のキリスト教福音書であり、トリニティ大学図書館に収蔵されている。

 だが、それはハーンの求める知識ではない。

 何故この男は自分にケルズの書などを見せようというのか。キリスト教の書物に用は無い。あの日以来、ハーンは神や教会への信仰心をほぼ失っていた。それらが全くの無力であると思い知ったからだ。

「……何故僕がケルズの書を読みたがるなんて思ったんです?」

 ブラムは顎に手を当て、少し思案してから、面倒臭がるように返した。

「読めば解るさ。これで確信したぜ。お前には、筋力だけでなく知識も足りていない。誰にでも閲覧できるような枝葉の本ばかり読んだって、根本の、最も重要な知識は身につかん。逆に言うと、根本さえ学べば、枝葉についてはその応用によって対応できる」

 ハーンは少し思案してから尋ねた。

「……今すぐ行くんですか? あなたと、二人で」

「そうさ」

「……もし、断ったら?」

「お前が死ぬだけだ」

「その銃で僕を殺すんですか?」

 ハーンは困惑し、小声で問うた。

「俺が? お前を? ……馬鹿馬鹿しい!」

 ブラムは笑った。

「全然違う。その反対だよ、俺は味方だ。お前を助けに来てやったんだぜ。俺の助けがなかったら、お前は〝奴ら〟に太刀打ちできず殺されるんだ。野垂れ死にさ。……いいか、幸運は二度は続かない。パトリック・ラフカディオ・ハーン、どこにでも四つ葉のクローバーが生えていると思うな」


【続く】




三歳年上のブラム・ストーカーに誘われ、ハーン少年はトリニティ大学図書館へと向かう……。果たしてそこでハーンを待つ運命とは?

すぐに続きを読みたい方はこの本をどうぞ!

妖怪処刑人 小泉ハーン (単行本)

本兌 有,杉 ライカ,トレヴォー・S・マイルズ,久 正人
筑摩書房
2018-02-20

この連載について

妖怪処刑人 小泉ハーン

ダイハードテイルズ

時は19世紀末。葵の御紋は未だ死せず。江戸城には無慈悲なる大老井伊直弼。永世中立交易都市たる京都神戸を境に、西部では薩長同盟が勢力を維持。一方、強化アーク灯の光届かぬ荒野には未だ魑魅魍魎が跋扈し、開拓地の人々を脅かし続ける。かくの如き...もっと読む

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コメント

qawsedsan @utamisyo わーい!あっさっきの記事ですが途中にリンク張られてて分かりにくいのでここから飛ぶのが読みやすいと思います!よき週末を……!https://t.co/hHREB5yGoI 2年以上前 replyretweetfavorite

marekingu #スマートニュース 2年以上前 replyretweetfavorite

s_yut 久正人先生がイラスト描いてる、小泉八雲が妖怪狩ってく小説、先輩妖怪ハンターが「ドラキュラ」のブラム・ストーカーなのかよ……! 2年以上前 replyretweetfavorite