レビュー:木村朗子(津田塾大学教授)
角田源氏を読むと気づく「意外にもテンポの早い展開」
角田光代による『源氏物語』のあたらしい現代語訳が、それも上中下の三巻本として出版されたことの意義は大きい。考えてみると英訳だと一冊にまとまっているのだから、分量的に無理な相談というわけでもなかったはずだ。冊数が少なくなると読むスピードもあがる。なにしろ上巻には、桐壺巻から少女巻までが入っているのである。光源氏が須磨に蟄居するまでの青年時代までで読みさすことを須磨返りというのだが、ゆうに須磨、明石巻を突破し、六条院を造営する栄華の極みまでを一息に読むことができるのである。このようにして読んでみてあの長大な物語は意外にもテンポの早い展開をしていたのだと気づかされた。とくに朱雀帝の許しを得て、都に返り咲いてからの光源氏の動静はまさに矢継ぎ早の展開である。
古典文学の専門家として、大学で『源氏物語』について講義しているのだが、私は現代語訳推奨派なのである。講義では原文を解説するとしても、物語を愉しむためにぜひとも現代語訳で読みとおすことを学生にはすすめている。せっかく学校教育で古典文法を習っているのだから、できれば『源氏物語』も原文で読めたら理想だが、『枕草子』や『狭衣物語』などに比べて、『源氏物語』の文体はとびきり読みにくく難しいのである。専門家ならいざ知らず、ただ小説を楽しみたいのだったら、フランス文学やタイ文学などを日本語の翻訳で読んでいるのと同じように、現代語訳で読むほうがむしろよいと私は考えている。それに翻訳書を読むことが、外国語を学んで原文を読んでみたいというモチベーションを育てるということもある。私自身、フランス語を学び始めた頃は、プルーストやバルザックの原文を読みたいなどと大それた野望を持っていたし、それを少しかじるような授業に参加したりもしたものだ。翻訳に助けられて豊かな読書をしてきたこと思うと、日本古典文学だからといって原文主義をとる理由もない。
どの現代語訳がおすすめか——今のニーズに合っている角田訳
そういうわけで、どの現代語訳がおすすめかと聞かれることも多いのだが、これはなかなかにやっかいな質問なのである。与謝野晶子は読みやすいが硬いし、谷崎潤一郎は敬語まで全部訳してあるので、現代語としてはまどろっこしくてなかなか読み進まない。そこで円地文子訳をすすめてきたのだけれども、文庫本は絶版状態ですぐには手に入らない。その後にも新訳が次々と出ていることを考えると、私が円地文子訳がいいと思っている理由は、単に私の若い頃にそれが最新の訳だったというのにすぎないという気もする。それよりあたらしいものとして田辺聖子による『新源氏物語』もあり、それも楽しんで読んだが、冒頭の桐壺巻を省いてしまっているし、現代語訳としてすすめにくい。『源氏物語』の研究をするようになってからは、わざわざ現代語訳を読もうとはしてこなかったから、その後に出た現代語訳についてはそれほど馴染みがない。
数年前に、『源氏物語』を読んでみたいという奇特な留学生のリクエストに応えて一緒に現代語訳を読むことになったときにも、迷いもなく円地源氏を選んだのだが、日本語がそうとうに達者な学部生でも文体が難しすぎて太刀打ちできない様子だった。文章が長くて意味が取りにくいのだ。そこで、アーサー・ウェイリーの英訳を日本語訳し直したという奇妙な現代語訳版に切り替えたところ、もともとの構文が英語で成っているせいもあって、これはスラスラと読めたのである。というようなことを考えると、谷崎潤一郎がめざしたような文体の調子までも訳すような文体訳は、そうとうに難しい日本語ということになるだろう。
その意味で、角田源氏のような短文でテンポよく意味をとっていくような意味訳のほうが今のニーズに合っているのだろうと思う。2015年に、デニス・ウォッシュバーンによるあたらしい英訳が出ているが、この新訳でも注をなるべく廃して説明を足すことで、一般の読者でもすらすらと読み進められるようになっているという。原文で意味を取りにくいところにことばを足して読みやすさに配慮している点では、ウォッシュバーン訳とともに、まさに現代の最新訳の傾向といえるのかもしれない。