「渋谷系」は00年代にパンクと合流した
小宮山雄飛(以下、小宮山) 僕は73年生まれなんですけど、やっぱり上の世代の存在はデカいですね。小山田くんや小沢くん、スチャダラパーやスカパラがいて、何をするにもなかなか超えられない。でも、そこでおもしろい動きをしたのが堀江(博久)くんとチャーベ(松田岳人)くんなのかな。
柴那典(以下、柴) と言うと?
小宮山 以前に堀江くんが「個別では上の世代に勝てないから自分たちの世代は横でつながろう」って言って、いろんな人とつながったっていう話をしてて。たとえばハイスタとか、パンクやスカコアの人たちとも横でつながった。だから自分たちの世代は仲が良いんだよねって言っていて。
柴 なるほど! それ、すごくおもしろいですね。というのも、渋谷系というムーブメントがその後の00年代にどう受け継がれたかを考えると、堀江さんとチャーベさんの動きはとても重要だったと僕も思うんです。むしろこっちの方が再評価が進んでもいいんじゃないかと思うくらい。
—— どういうことなんでしょうか?
柴 堀江さんとチャーベさんがやっていたニール&イライザって、いわば「最後の渋谷系」ともいうべきユニットなんですね。たとえばチャーベさんはカジヒデキさんとZESTという宇田川町のレコード屋のバイト時代の同僚だったりして、二人とも渋谷系のど真ん中にいた人なんですよ。
ただ、彼らのデビューは97年で、もうムーブメントは下火になっていた。でも、その後に二人はSCAFULL KINGとかLOW IQ 01のようなパンクやスカのバンドと共演したり一緒にレコードを作るようになるんです。ハイスタともそういう人脈でつながっていった。
小宮山 特にチャーベくんの方が意識していろいろつながってたのかもしれないですね。
柴 で、結果的に90年代はまったく別々のカルチャーだった渋谷系とAIR JAM的なパンクシーンが、00年代には融合していったんです。
小宮山 上の世代に対抗するためには手を組まないと、ってね。というのは、上の世代はあまり横のつながりがないんですよ。たとえばヒップホップ、パンク、ポップスって、それぞれバチバチしてたというか、お互い交流もなかったんです。
でも、まさに堀江くんのあたりからその壁が取っ払われていったという。
柴 ファンもそうですよね。90年代にパンクを好きだった人はあえてオシャレなポップスを遠ざけているようなところがあったけれど、00年代はミュージシャン同士の仲が良いからTシャツに短パンのパンク好きな子たちがそういう音楽も聴くようになって。で、同時期にフェスが定着していって、長く活動を続けるバンドが増えていった。そういう時代の流れがあって、渋谷系というムーブメント自体は90年代で終わってしまったんですけど、その遺伝子はパンクシーンの中に引き継がれたという。
小宮山 本当にそうだと思います。僕らがデビューしたあたりは、同じバンドでもパンクなのかロックなのかポップスなのかみたいなところで、なかなか相容れない空気があったんです。あっちを認めちゃダメだ、みたいな。それが変わっていった感じはありますね。
柴 そんな中で、ホフディランはどうでした?
小宮山 僕らはその中では、スチャダラパーみたいなヒップホップの界隈につながりがあるのにアコースティック・ギターとキーボードの二人組みたいな変な場所にいて。
で、自分で言うのもあれなんですけど、わりと人気が出たんですよ。その時に思ったのは、別にオシャレなことをやっている人が全部オシャレな音楽が好きなわけじゃないっていうことで。