非行少年と接するのが上手いからと、
警察官から保護司になることをすすめられた
初めて中本さんにインタビューをした時のこと。私は大きなミスをしてしまった。
聞いてはいけない質問をわりと初めのほうにしてしまったのだ。
「子どもと接するにあたって、大事にしていることは何ですか?」
中本さんの答えはというと、
「根掘り葉掘り聞かないこと。すると、あっちのほうから『彼女ができた』とか、勝手にいろいろしゃべってくる。だって私も、人から自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのは嫌じゃもん。だから、私も、相手が嫌じゃろうと思うから、聞かない」
インタビューの滑り出しとしては最悪である。
以来私は、中本さんの過去や家族のことなど、あまり聞けなくなってしまった。
そのため、前述したNHKスペシャルでは、家族はいるのか、保護司を始めたキッカケは?など、基本的な情報はほとんど伝えられていない。周囲から「情報が少なく、かえっていろいろと考えながら感じながら見ることができた」とお褒めの言葉をいただいたのだが、心が痛む。
しかし、状況は一変した。私は中本さんの本を書く。先日、「根掘り葉掘り聞く」許しを得て、改めていろいろと聞いてみた。
中本さんは1934(昭和9)年、広島県江田島で生まれた。結婚し、3人の子宝に恵まれたが、3人目の子どもを出産した直後、夫が病気で他界。以来、女手一つで3人の息子を育て上げた。
末っ子が中学生の時、PTA活動に熱心に取り組んだ。
時代的に中学校が荒れ、「校内暴力」という言葉が世間で話題になっていた頃で、中本さんも補導された生徒たちを警察に迎えに行くという日々が続いた。
そんなある日、警察官から、非行少年への接し方が上手いと保護司になることを勧められ、「なんか知らんがやってみようかね」と気軽に引き受けたのがすべての始まりである。
1980(昭和55 )年10月のことだった。
通常、保護司は、担当となった非行少年と月に2回ほど面接を行い、更生を図るための約束事が守られているか確認するとともに、困っていることはないか、生活上の相談にのる。
中本さんも最初のうちは、このスタイルをとっていた。
保護司を始めて2年ほど経った頃、シンナーがやめられないという中学2年生の男子生徒を担当した。 今に続く“中本流”は、この少年を立ち直らせようとすることで生まれた。
「誰もが注意をしても、絶対に聞かんのよ、その子がね。
ほしたら『水の一杯ももらってないのに何で言うこと聞かんといかんのんか?』って言うたわけよ。その子が。
『え、あんたに悪さをさせないがために、一生懸命になっとるんじゃけど、そりゃ聞かんの?』って聞いたら『聞かない』と。
『やっぱり水の一杯でももらってればね、聞かんこともないよ.』と言うたのがはじまりなんよ。
それから、ジュースになり、ほんで、ご飯になったわけよ。
そしたら変わった!
人の言うことは一切聞かんでも、私の言うことだけは、ものすごい聞きよったもん。
だからご飯よね。
その頃は給食いうのがなかったからね。で、私が弁当持って、学校へ行く。
ものすごい変わったよ。暴力も振るわんようになったしね」
この時、中本さんは初めて少年から「シンナーを吸っているとお腹が空いていることを忘れられる」とシンナーを吸っている本当の理由を聞かされた。
中本さんの中で「非行」と「子どもの空腹」が繋がった瞬間である。
貯金を切り崩しながら、子どもたちにご飯を作る
中本さんは、どんどん「普通の保護司」っぽくなくなっていった。
面接の回数を決めたところで、お腹を空かせているのは毎日である。
次第に玄関には鍵がかからなくなり、暖かくなると開けっ放しになり、中本さんの家には子どもたちが頻繁に出入りするようになった。
また、非行の友達と繋がらないよう促すのも保護司の重要な役割なのだが、いくら言っても陰で会ってしまう。
聞けばその友達も食べていないと知り、「陰で会うくらいならウチに連れて来なさい」と、担当の子どもの友達も来るようになった。
気づけば家が子どもで溢れかえっていた。
毎日何人分もの料理を作るようになったのだが、食品スーパーで総務の仕事をしていたことは、中本さんの活動を助けてくれた。職場の上司に相談したところ、売れ残った食料品を持って帰っていいとのことで、ずいぶんと持ち帰ったそうだ。
それでも1日に3升のお米を炊くこともあり、足りないときは、貯金を切り崩しながら捻出した。
その様子を見かねて、近隣に住む女性たちが自然と手伝いに来るようになった。
「中本さんの負担を少しでも減らそう」と不要品を持ち寄り、バザーを開いてはお金を集めた。こうしてほそぼそと続けて今に至っている。
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