二〇一二年、僕らは神保町のJBというバーにいた。
地下にあるその店は、ソーセージが美味い、と評判だった。
「おつかれさまです! 長い時間、ありがとうございました!」
「こちらこそ、おつかれさまでした!」
何日かにまたがる取材が終わり、僕らは乾杯をした。
力尽きた僕はビールを飲み、目の前にあったピスタチオを連続して口に放り込む。
「けど、こんな話でよかったんですかね?」
心配そうな表情をした彼が、長身の編集者に話しかけた。
僕らは最初、彼が病気になったときの話を聞いていたのだが、次第にその周辺や前後に、話は飛び火していった。ノートのメモは百枚を超えている。
「ええ。わたしが言うのも僭越ですが、凄くいい話を聞かせてもらいました」
長身の編集者は、何かをやり遂げた男の顔をして、うんうん、と頷いた。
「わたしが言うのも僭越ですが、いい小説になる気がします。来年の今ごろには、きっと書店に並んでますよ。ええ、ええ」
お前は書くわけじゃないから気楽だな、おい、と僕は思う。
もしかしたらこの長身の編集者は、病気からの復活、そこに複雑に絡んだ人間模様、虚実を織り交ぜた、ドラマチックな愛と生還の物語、のようなものをイメージしているのかもしれない。
だが、そんなのは無理なのだよ、と僕は思う。
普通の男子の愛と生還は、そんなフレームやアングルでは描けないのだよ。
「いや、でもホントにありがとうございました。僕もいろいろ思いだせて、楽しかったです」
お辞儀をする彼に、僕は慌てて体を起こした。
実際のところ、僕は彼とハイタッチしたい気分だった。
「こちらこそですよ。僕も子供の頃のこととか、いろいろ思いだしました」
何回か会っただけだけど、この人のことは何でも知っている気がした。
彼はずっと昔からの友だちのような気もするし、彼が僕自身であるような気分でもある。
「あ、出てくる人の名前とかは、伏せといてくださいね」
くそまじめな顔をして彼は言った。
「え! じゃあ、土○とかも、そのまま書いちゃいけないってことですか?」
「そうですねえ。できれば。迷惑かけちゃうといけないから」
「……じゃあ、名前を変えて、土門? 土井とか? 土井垣にしときましょうか」
「土井垣! 土門も」
ふっ、ウケる、という感じに、長身の編集者が笑った。
同世代である我々の頭のなかには明訓高校の土井垣や横浜学院の土門のことが浮かんでいたが、少し若い彼にはわからなかったかもしれない。
「……あとは、土鍋とか……土俵とか、土器とか」
「いや、そんな名字はないでしょう」
メガネをかけた長身編集者は、土偶みたいな表情で言い放った。
そのとき僕は、こいつのことも絶対に小説に書いてやろう、ときっぱり決めた。
「それにしても土○くんは、いいキャラクターですね」
「ええ。でも本当、病気のときは、あいつがいて助かりましたよ」
それから僕らは下世話な話をいろいろした。
土○くんの書けないような話その1や、土○くんの書けないような話その2や、土○くんの書けないような話その3など、多岐にわたるいろんな話だ。
「ビール、お代わりお願いします」
「あ、では私も」
「すいません、僕らばっかり」
「いえいえ、僕も、もう一杯くらい飲みます」
小学生のとき修学旅行でパンツを落とした彼も、今ではすっかり立派な青年だった。
今はもう、どこに出しても恥ずかしくないな、と、親みたいな気分で思う。
彼は礼儀正しくて、仁義に厚く、仕事も頑張っている愛の戦士だ。
「それでプロポーズはいつするんですか?」
「ええ。そろそろしたいんですけどねえー。目標貯金額にもだいぶ近付いたし」
「へー」
彼とはずっと過去の話をしてきた。今、初めて未来の話をする彼は、とてもいい顔をしている。
「プロポーズなんて、初めてだから緊張しますよ」
「いやいや、初めてじゃないでしょ」