先日、現在の出版界の状況といった話を人としていて、そこからつい、ひと昔前の出版の話に移りさらに「名著を読み返すことは大切ですよね」という話題に流れた。ある年代以上の人にありがちな観念奔逸であり、自由連想のまま、いくつか書籍や著者をしり取り遊びのように思い出しては口にしたが、話し相手からふと『TN君の伝記』が出た。私は心深く、奇妙な感覚に打たれた。
![]() TN君の伝記(なだいなだ) |
あの本はたしかに名著と言ってよい。今でも読み継がれ、地味にだろうが売れ続けてもいるだろう。しかし売れているのはたぶん、学校の先生が課題図書のように学生に読ませるからであって、現代の若い人が自ら率先して読もうとはしないのではないか。それに、と思う、あの本の時代背景はもう若い世代の人にはわからなくなっているのではないか。そう考えると、『TN君の伝記』を現代に読み返す意味なんてあるのだろうか。自問しつつ思いが沈み、それが心の底に至ると「読み直してごらん」という声が聞こえた気がした。現在はあの時代に少し似ているからかもしれない。読み返してみた。『TN君の伝記』は2002年に新書版の福音館文庫として再刊され、その後も版を重ねていた。
『TN君の伝記』はタイトルどおり、TN君という男の人の人生をつづった書籍である。だから、TN君とは誰のことか、ということが気になる。そこがこの本の趣向でもあるのだが、謎解きではない。著者・なだいなだは、TN君の本名を明かさない理由として、「ぼくの知ってもらいたいのは、彼の名前ではなくて、彼がどんなふうに生きたか、ということだからだ」としている。「そのためには、名前なんてじゃまになる。そう思ったから、名前は出さない。名前というのは不思議なものさ。なんべんも名前を聞いて、顔をおぼえるとそれでその人間のことが、よくわかったような気がしてしまう」。口調からわかるように、中学生から高校生に向けた教育的な書籍である。