騒乱らしい騒乱はまったくなく、織田・徳川連合軍三万は昼まえに若狭佐柿に着陣。信長からの使者が全軍に走り、騎馬武者が招集された。
「一同に伝える。今朝ほど、勅令の綸旨(りんじ)がくだされた」
例によって最上席には家康と信長と、ほんとうは浅井長政が座るはずの空席の床几(しょうぎ)が据えられており、木下秀吉が信長の脇でひざまずいて、綸旨をうやうやしくひろげ、信長のかわりに読み上げた。
「改元である。あたらしい元号は『元亀(げんき)』」
木下秀吉が元号の名を大書した紙をひろげて、諸将にしめした。
「本日は改元を祝し、佐柿に逗留する。一同、兵馬をやすめるように」
御意、と全員が頭を下げ、軍議は散会となった。
——ここは、戦場のはずなのだが——
信長が木下秀吉とともに退席すると、とたんに室内の緊張がほぐれた。信長の行動に予測がつかないのがよほど恐ろしいのか、織田の軍議は、とにかく信長がいるときの緊張感が尋常ではない。もちろん、信長は桶狭間のとき、軍議では雑談に終始して深夜一騎駆けして家臣団を周章狼狽(しゅうしょうろうばい)させた経験があるので、家臣団が緊張するのは当たり前なのだが。
——それの反動としても——
緊張感がない。
「あまり、得心がゆかれてない様子ですな」
明智光秀が家康のそばに寄って、周囲の諸将に聞こえる程度の声で言った。
「それは——」
家康の立場が立場である。どうこたえるべきか迷っていると、すかさず明智光秀は具足の高紐にくくりつけた革の小袋から、さいころをふたつ、取り出した。
「右手をひろげてくださいませ」
「こう、か?」
明智光秀は左手でさいころをふりながら、
「奇数?偶数?」
「とは?」
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