二 西近江高島
永禄十三年(一五七〇・元亀元年)、四月二十一日、夕刻、西近江高島。
織田・徳川連合軍三万は二十日に京を出立し、琵琶湖西岸を北上する西近江路(にしおうみじ)をとった。二十日は西近江和邇(わに)、二十一日に西近江高島。
移動は徒歩にあわせるのが鉄則とはいえ、いちにちわずか七里ほどの行軍はやはりかなり遅い。示威(じい)のための進軍だというのが、これでわかる。
「徳川は、敵からも織田からも見られているのだ、と忘れさせぬように」
とだけは、家康は厳達していた。
服部正成(半蔵)に命じて北近江や越前、敦賀(つるが)などに伊賀者を放ち、浅井長政や朝倉義景の動きを逐一報告させている。もちろん、伊賀者は木下や明智、柴田、佐久間、滝川といった、織田方にも潜伏させている。三河徳川家臣団二千は、本国からとおく離れて織田二万八千と同行しているのだ。信長の気分しだいで切っ先が家康に向かえば、一瞬で踏み潰されてしまう。
自分が織田を監視している以上、自分たちも監視されていると考えるのが当然であろう。
織田がこれから攻め入る先は、織田の領地にのみこむことを前提に攻める。占領したあとの領地経営を考えれば、織田方の諸将が足軽たちに「乱暴狼藉(ろうぜき)厳禁」の法度(ほっと)を守らせるのは難しくはない。
だが、徳川はどこをどう攻めても、なんの得にもならない。どれだけ戦功をあげようとも、与えられる領地はないし、得られるものはなにもない。これにくわえて信長個人の、異常ともいえる秘密主義によって、行動の目的も明確ではない。
これで徳川の足軽たちに戦場で倫理を守れというのは、きわめて困難だというのは子供でもわかる。家康に対しても、織田から何らかのかたちで監視されていないほうがおかしい。
信長は、行動が予測不可能で破天荒だが、遵法(じゅんぽう)意識にやかましい。織田との同盟で加勢のためにはるばる三河から西近江までやってきて、狼藉者の汚名を着せられて潰されてはたまらない。
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