左からエムカクさん、てれびのスキマさん、細田昌志さん B&Bにて
さんまが「日本一の最低男」になるまで
エムカク さんまさんが雑談芸を確立したのって、1984年のことだと思うんですよ。
細田昌志(以下、細田) 1983年にさんま師匠が自分を客観視するようになったと。それが84年の「雑談芸」確立につながるんですね?
エムカク 松之助師匠はかねてからさんまさんに「雑談を芸にできたら一流やぞ」と言っていたそうです。それがずっと頭にありながら漫談で試行錯誤してたさんまさんが、84年に勝負に出ます。それが『笑っていいとも』の「テレフォンショッキング」。この年の2月に初出演したさんまさんは、当時の最長記録を更新して35分間しゃべりまくるんですよ。
たわいない話で35分笑わせた経験から、さんまさんは『いいとも』のレギュラーにどうしても入りたいと、当時のプロデューサーであった佐藤義和さんにかけあうんです。
細田 数々の演芸番組を作ってこられた、元ひょうきんディレクターズのゲーハー佐藤さんですね。
エムカク はい。それが通って、さんまさんが84年4月から『いいとも』のレギュラーになる。と同時に劇場に一切出なくなり、漫談と決別した。
毎週の後説でフリートークを展開して手応えを感じていたさんまさんは、84年12月に「15分間の雑談コーナーをタモリさんとやらせてくれへんか」とディレクター陣に伝えます。かなりの反対を押し切って、「とにかく3カ月やらしてくれ、それであかんかったらコーナーやめたらええやん、俺もレギュラーやめるし」という覚悟ではじまったのが「タモリ・さんまの日本一の最低男」。
スキマ おお。
エムカク そのコーナーが好評で、翌85年には『さんまのまんま』が始まるんです。
細田 「日本一の最低男」の成功って、鶴瓶師匠の東京進出にすごく役立っているように思うんですが。
スキマ たしかに、先に「日本一の最低男」があったから『パペポTV』が関東でも受け入れられたと思います。細田さんは『パペポ』を間近に見てたと思うんですけども……って急にふっちゃいますが。
エムカク 細田さんは元・上岡龍太郎師匠の弟子ですからね。
細田 半年くらいでクビになっているので、ちゃんとした弟子とは言いがたいんですけども……ま、でも、その時期は鶴瓶師匠に毎週お目にかかってましたね。月曜が収録日でね。よみうりテレビ……渋い想い出やなあ。
いや、僕の話はどうでもいいんですよ(笑)。『パペポTV』の最終回はかなり伝説的なものですよね。
エムカク 『鶴瓶・上岡パペポTV』、途中から『LIVE PAPEPO 鶴+龍』が正式タイトルですが、この最終回に上岡龍太郎、笑福亭鶴瓶、明石家さんま、島田紳助の4人が揃ったんですよね。まあ、村上ショージさんと間寛平さんもいたんですが。
細田 ショージさんと寛平さんは「パ・リーグ」とか言われてましたね(笑)。
エムカク 「J2」とかね(笑)。とにかく、この豪華な4ショットを実現させたのは鶴瓶さんなんですよ。当初、さんまさんはエンディングの5分だけ出る予定だったそうなんです。というのも、この出演オファーが吉本を通してないから。でも上岡さん引退のときですからどうしてもということで、『明石家電視台』の収録が終わって駆けつけることになった。
最初はもう一人のゲストだった紳助さんがハケたあとにさんまさん登場という流れだったのを、紳助さんがしゃべってる途中で鶴瓶さんが「今日はさんまも来てるみたいや」って。
細田 観客もえらく盛り上がって。
エムカク これは有名な話ですけど、千原ジュニアさんがバイク事故で入院されているとき、東野幸治さんがこの映像のノー編集版のテープを見せたそうなんです。壮絶な事故を経験して芸人の道を諦めかけていたジュニアさんが、「もう一回芸能界に戻ろう」と決意したきっかけがこの4ショットのやりとりだった。