「御屋形(信長)の内意をお伝えに参上つかまつりました」
ほう、と同席した者たちがどよめくのを家康は手で制した。
「いちおうたしかめておこう。その“内意”は、信長殿から直接『かくかくしかじかの事柄を内々に家康につたえよ』ではなく、木下殿が信長殿の立居振舞から『たぶんこういうつもりではないか』と推測した程度のものだな」
「はい」
信長の秘密主義が織田家中でも不安を抱かせている事情は同じ。多少なりとも事前に信長の行動がわかれば不安はいくらかは解消される。
秀吉のいうことはあくまでも推測にすぎないが、それでもかなりのところは信長のことがわかる。
「草履(ぞうり)とりから御屋形の胸中を読んで奉行(ぶぎょう)に成り上がった者の推測に候」
そこまで言えば、ふつうの憶測よりも説得力はある。信長本人の密命ではないので、徳川の家臣たちにも聞かせられて、安心させられもする。
「で、木下殿のみるところはいかに」
「出陣先は越前。敵は朝倉越前守(えちぜんのかみ)義景(よしかげ)」
朝倉氏は南北朝時代、足利(斯波・しば)高経(たかつね)にしたがって家祖・朝倉広景(ひろかげ)が越前にはいった。応仁の乱の時代、朝倉氏は文明三年(一四七一)七代孝景(たかかげ)のときに拠点を越前一乗谷(いちじょうだに)に移し、越前一国を制圧した。守護代(しゅごだい)とはいえ、織田や徳川とは比較にならない名門である。
当主・朝倉義景は保守的で老練なせいか、老いた印象があるが当年三十八歳で、織田信長と同世代である。
だが、信長とは対照的に、手堅い国政をおこなっていた。五代にわたる浄土真宗本願寺派との抗争に決着をつけ、管領代(かんれいだい)の地位を受けるほどである。
十三代将軍足利義輝(よしてる)が暗殺されると、その弟・一条院覚慶(かくけい)の身柄を保護して還俗させ「足利義昭(よしあき)」にした。
足利義昭は還俗だけでは満足せず、朝倉義景に上洛をうながした。しかし朝倉義景はこれに応じなかった。
このため足利義昭は明智光秀の仲介で岐阜の織田信長にたより、信長は義昭を奉じて上洛した。
朝倉義景にしてみれば、掌中の珠を逃した判断間違いは痛恨のきわみなのは当然であろう。義昭将軍にあわせる顔がないのもまた当然であって、祝言能への出席を拒むのもあたりまえではある。
ただ、状況はかわった。
十五代将軍足利義昭の上洛命令に従わないということは、後見人・織田信長に対する異心あり、ということになるのだ。
ひでよしは推測をつづけた。
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