能・猿楽は格調高いもので、足利義昭が十五代将軍に任ぜられたとき、さっそく能興行をおこなった。それ以後も慶事にはかならずひらかれる。
信長自身はこの芸能はあまり好きではないらしい。義昭襲職の披露目興行でも番組を短く詰めた。今回の能興行も、七番組のごく短いものだった。
なにより、重臣の行儀にやかましい信長が、興行中、家臣団の私語をゆるしているのがいちばんの証拠だ。
家康のすぐ脇に秀吉が供応役としてつき、列席者について案内をしているように、ほかの列席者にも、それぞれ織田の家臣がついてあれこれ案内をしている。何度となく家康の側をみているので、かれらが「あれは何者だ?」と家康についてたずねているのは明白である。
それほど家康はいまの織田の家臣団とは縁がうすい。家康自身とても意外な気がするのだが、冷静に考えれば家康は駿河攻略に専念していて、西国攻めを主にしている織田家中とは、いくさの場以外ではほとんど接点がないのだからあたりまえだといえる。二年前の上洛時には徳川も同盟軍として同行しているが、どの戦局でもほぼ織田だけで決着をつけ戦闘にはくわわっていない。
客席の最前列で苦りきった顔で退屈さを隠そうともしないのが、主役の織田信長。その隣で、安心できる城塞居館を造営されて嬉しいながらも信長への微妙な感情があるのを表情に隠し切れないでいるのが足利義昭、とそこまでは家康にもわかった。
足利義昭の周囲を固めているのは、足利義昭の直属の家臣で、一色藤長や細川藤孝、明智光秀ら。いずれも家康とは面識がある程度。むろん、足利義昭が将軍に任ぜられた場に同席はしているのだが。
「木下、あそこであつまっておられる公家衆は?」
「それがその——拙者でも誰がどなたか、詳しくは教えてもらえんのですが……」
「大雑把なところは教えてもらったんだな?」
「御意。摂関家のお歴々だそうで」
「げっ」
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