「SMAPを平成のクレイジー・キャッツにしたいので、笑いを教えてほしい」
この言葉の真意を推し量るには、少し時間をさかのぼる必要がある。
そもそも歴史を紐解くと、ジャニーズ事務所の始まりは、実はバラエティとかなり密接に関係している。
ジャニーズ事務所の所属タレント第一号である初代ジャニーズが結成直後に出演したのは「夢であいましょう」(NHK)と「味の素ホイホイ・ミュージック・スクール」(日本テレビ)、どちらも音楽をベースにしたバラエティ番組である。
そう、元をたどれば、ジャニーズ事務所のテレビにおけるルーツは紛れもなくバラエティなのである。
そしてここで踏まえておきたいのは、初代ジャニーズの始動時期は太平洋戦争の復員兵もバリバリ現役の1960年代、若い男性が人前で歌って踊ることにまだ拒否反応が強かった、そんな時代だ。
日本におけるバラエティとは本来「娯楽」であり、その中にはさまざまなジャンルのエッセンスが含まれている。
その中からコメディと音楽の密接な関係を抽出し、早々に具現化した代表例が日本初の音楽バラエティ番組「光子の窓」(日本テレビ)であり、そこから飛び出した放送作家・永六輔による前段の「夢であいましょう」や「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)になる。
男性が人前で歌って踊るというジャニー喜多川の〝非常識な発想〟を後に〝常識〟へとひっくり返したのは、この「娯楽」の力があってこそだった。
彼らは喜劇と音楽の幕間にダンスというそれらと地続きの娯楽を演じることで、日本社会に自らの居場所を少しずつ作り上げていったのだ。
実際に初代ジャニーズは「夢であいましょう」から『若い涙』という楽曲でレコードデビューを果たし、ついにはその翌年、「NHK紅白歌合戦」の初出場も叶えている。
さらに初代ジャニーズは1965年から自身でも「ジャニーズ・ナインショー」(日本テレビ)という音楽バラエティ番組のホスト役を務めたことがある。
当時のテレビ欄には共演者としてハナ肇やコミックバンド時代のザ・ドリフターズの名前が並ぶ。後にリニューアル版として放送された「ジャニーズ・セブンショー」も含め、番組ではすでに彼らが参加するコントもあったという。
ただし当時のジャニーズにおける笑いとはあくまでも彼らの目指していたミュージカルの延長線上、その芝居の一部にもある、ユーモアだった。
実際に初代ジャニーズは1966年になるとそれらのレギュラー番組を突如降板し、本格的な歌と踊りのレッスンを叶えるために、アメリカへと旅立つことになる。
そこが同時代にやはり音楽畑からバラエティへ向かったハナ肇とクレイジー・キャッツやザ・ドリフターズとの、一番の違いである。バラエティに出会ったクレイジーやドリフがやがて笑いと音楽の両立を選んだのに対し、当時のジャニーズ事務所において笑いはあくまでも、歌や踊りを本業とする中で、そこに続く一つの入り口として選択されるものだったのだ。
初代ジャニーズの育成方針を振り返ったジャニー喜多川の言葉がある。
「我々は、ミュージカルが最終の目標だった」
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