「あの子なあ、神さんみたいな子やで」
笑福亭鶴瓶こと駿河学は、生来の人懐っこさで、自宅の長屋に訪れた姉の友人に飴玉を配った。
人を喜ばすのが何よりも好きな子供だった。
姉はそんな弟について友人たちに誇らしげに囁いたのだ。
笑福亭鶴瓶が生まれたのは1951年。まだ「戦後」の匂いが立ち込める中、サンフランシスコ平和条約や日米安全保障条約が締結され、「戦後」から「復興」へとシフトしていく只中にあった。
第1回の『紅白歌合戦』が放送され、民放初のラジオ局も誕生した。プロ野球ではオールスター戦が開始され、プロレス界には力道山がデビューした。日本に明るい未来の希望が芽生え始めていた。
鶴瓶の成長は日本経済の成長とともにあった。2歳の頃にテレビ局が開局。その翌年から高度経済成長が始まった。幼稚園児の頃、「もはや戦後ではない」と謳われ、小学校へ入学する頃には、巨人軍に長嶋茂雄が入団し、落語界では初代林家三平が人気を博していた。
一方で駿河家は貧しい四軒長屋。その恩恵はあまり感じられなかった。だが、五人きょうだいの中で鶴瓶が「一番面白くない」と言われるほどオモロい家族と、密接なご近所関係の中で育ったことは、落語家・お笑い芸人になる上で多大な影響をもたらした。
「落語家とかお笑いの人って、そういう密集した中からやないと生まれんのやろうね」
そんな笑福亭鶴瓶の誕生から幼少時代を年表で振り返ってみたい。
1951(昭和26)年 0歳 誕生
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