幸。
という字を、とにかく僕はよく書く。幸。幸。幸。何度も書く。今までもたくさん書いてきたし、これからも書くだろう。
別に変な宗教に入っているからじゃない。名前に「幸」という字が入っているからだ。
松尾勝幸。これが、僕の本名なのだ。本名だから、なにかとさまざまな書類手続きの際におのずと「幸」という字を書くことになる。他の字ももちろん書くわけだが、数十年名前を書いて来て、いっこうに「幸」だけが上手に書けないのが癪なのだ。特に筆圧の強い僕はボールペンを使うと、字が踊って殴り書きみたいな「幸」になる。そして、悲しいかな、手続きとなるとボールペンを手渡される確率が非常に高い。さらに、往々にして手続きはせっつかれているものだし、病院やマッサージ屋なんかでは、ボードに乗せた紙を膝に置いて書いたりしなけりゃあいけないので、なおさらフワフワと不安定な「幸」になる。
左右非対称の「松」「尾」「勝」までは、なんとかごまかせるのだが、「幸」という縦から見ても横から見ても左右対称の文字は、中心がずれると一気に形が崩れる。だから、「幸」だけ慎重に書くゆえに、なにかこなれない硬さのある子供の字みたいになってしまうのだ。
僕の名が、松尾幸勝だったら、「幸」もまだ名前の流れの途中だしという平常心で、どさくさまぎれにうまく書けそうな気もする。が、いかんせん最後のしめであるからして、今度こそうまく書きたいというよこしまな気持ちが緊張を呼び、さらに「幸」をのびのびとギクシャクさせてしまうのだ。
そのせいにするわけじゃないが、僕は、この世に存在するありとあらゆる手続きごとが苦手だ。しかし、やんぬるかな、現代社会というものは、ありとあらゆる角度から僕に手続きを迫るのである。TSUTAYAに行けばTカードの更新の手続き、スーパーに行けばポイントカードの手続き、宅配便の手続き、もちろん携帯ショップ、パスポート再発行、銀行、区役所、クレジットカードの支払いにだって、名前は書かなければならない。手続きのたびにつたない「幸」を書かざるをえない。その不幸。