東京の夫婦

幸」という字。[第二十二回]

「大人計画」を主宰し、作家、俳優として活躍する松尾スズキさん。2014年に「普通自動車免許を持った一般の女性」と再婚した松尾氏がその結婚生活を綴ったエッセイ「東京の夫婦」の連載がスタート。第二十二回は、ありとあらゆる「手続き」ごとが苦手な松尾さんのお話。イラストは近藤ようこさんです。


 幸。
 という字を、とにかく僕はよく書く。幸。幸。幸。何度も書く。今までもたくさん書いてきたし、これからも書くだろう。
 別に変な宗教に入っているからじゃない。名前に「幸」という字が入っているからだ。

 松尾勝幸。これが、僕の本名なのだ。本名だから、なにかとさまざまな書類手続きの際におのずと「幸」という字を書くことになる。他の字ももちろん書くわけだが、数十年名前を書いて来て、いっこうに「幸」だけが上手に書けないのが癪なのだ。特に筆圧の強い僕はボールペンを使うと、字が踊って殴り書きみたいな「幸」になる。そして、悲しいかな、手続きとなるとボールペンを手渡される確率が非常に高い。さらに、往々にして手続きはせっつかれているものだし、病院やマッサージ屋なんかでは、ボードに乗せた紙を膝に置いて書いたりしなけりゃあいけないので、なおさらフワフワと不安定な「幸」になる。

 左右非対称の「松」「尾」「勝」までは、なんとかごまかせるのだが、「幸」という縦から見ても横から見ても左右対称の文字は、中心がずれると一気に形が崩れる。だから、「幸」だけ慎重に書くゆえに、なにかこなれない硬さのある子供の字みたいになってしまうのだ。

 僕の名が、松尾幸勝だったら、「幸」もまだ名前の流れの途中だしという平常心で、どさくさまぎれにうまく書けそうな気もする。が、いかんせん最後のしめであるからして、今度こそうまく書きたいというよこしまな気持ちが緊張を呼び、さらに「幸」をのびのびとギクシャクさせてしまうのだ。

 そのせいにするわけじゃないが、僕は、この世に存在するありとあらゆる手続きごとが苦手だ。しかし、やんぬるかな、現代社会というものは、ありとあらゆる角度から僕に手続きを迫るのである。TSUTAYAに行けばTカードの更新の手続き、スーパーに行けばポイントカードの手続き、宅配便の手続き、もちろん携帯ショップ、パスポート再発行、銀行、区役所、クレジットカードの支払いにだって、名前は書かなければならない。手続きのたびにつたない「幸」を書かざるをえない。その不幸。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

松尾スズキが綴る、東京の夫婦の軌跡

東京の夫婦

松尾スズキ
マガジンハウス
2017-08-10

この連載について

初回を読む
東京の夫婦

松尾スズキ

東京で家族を失った男に、東京でまた家族ができた。夫は、作家で演出家で俳優の51歳。妻は、31歳の箱入り娘。 ときどきシビアで、ときどきファンタジーで。 2014年に「普通自動車免許を持った一般の女性」と再婚した松尾スズキさんがその結婚...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

aaaaami 手続きを不幸と感じるものと、頓着しないもの。二人は、東京の空の下、同じ家にいる。 7日前 replyretweetfavorite

sac_ring 「昔、教室の隣の席で、僕にプリントの内容を説明してくれた子が、大人になった僕に「幸」をうまく書かせるために姿を変えて現れたのかもしれない」 7日前 replyretweetfavorite

75kmd_nk シェアしたくなる話だった。凸凹ってよいなあ。 7日前 replyretweetfavorite

keguri_naoko さすが、元銀行員。毎度この返事を聞くたび、しみじみ、かっこいいな、この人は、と思える。| 7日前 replyretweetfavorite