仕事の達成は、すべて将棋のためにある!?
梅田 加藤さん、4月9日に開幕する第71期名人戦(※)第一局の観戦記を朝日新聞にお書きになると決まったんですね。おめでとうございます。今期は、すでに王位、王座、棋聖の三冠を持っている羽生善治さんが、四冠をかけて森内俊之名人に挑戦するわけですけど、これは大事なシリーズの大事な第一局ですよ。
※将棋には七大タイトル戦がある。それぞれ、竜王戦、名人戦、王位戦、王座戦、棋王戦、王将戦、棋聖戦。名人戦は、七番勝負で行われ、勝利すると将棋界でもっとも格式と歴史のある「名人」のタイトル称号が与えられる。
加藤 ありがとうございます。僕はずっと将棋ファンで、観戦記を書くのは人生の目標のひとつだったのですが、まさかこんなに早く、しかも名人戦で実現するとは思ってもみませんでした。
梅田 2010年にシリコンバレーに来てくださった時も、加藤さんは僕の本業について聞くより、ずっと将棋の話をしていましたね。
加藤 あのときは、2人で延々と、将棋や棋士たちの話をしていました。シリコンバレー郊外のおしゃれなカフェの日当たりのいいテラス席で、ずうっと将棋の話をしているという(笑)。
梅田 我々の仕事の達成は、将棋のためにありますからね(笑)。僕はシリコンバレーで起業していなかったら、そして『ウェブ進化論』(ちくま新書)を執筆していなかったら、棋士と知り合うこともなかっただろうし、2008年に棋聖戦、竜王戦の観戦記を依頼されることもなかったでしょう。
加藤 仕事の達成が将棋のため、と言い切る梅田さんがすごいです(笑)。でも確かに、僕も起業していなかったら、こんなにすばらしい機会をいただくことはなかったと思います。
梅田 きっと、最高の経験をされると思いますよ。観戦記を書くこと以上に、棋士の傍らで将棋を観るということ自体が豊穣な体験なんです。控え室には現役の棋士がたくさんいます。才気あふれる新鋭から、過去にタイトルを持っていたトップ棋士が集結しています。その彼らが、目の前で指されている一局の将棋について、ああでもない、こうでもないと深く深く考え続ける。こんなおもしろい状況、他にないですよ。一人ひとりの言葉の向こうに、人間性や対局者との関係が見えるんです。
加藤 おおー、なるほど。楽しみですけどとても緊張しています。
僕がなぜ将棋が好きかというと、人間の才能が純粋に発露する場だからなんです。僕はそもそも才能マニアで、将棋に限らず、天才たちが大好きなんですよ。編集者という仕事についたのはそのためで、いろんな天才に会って、彼らのメッセージを世の中に届けるお手伝いをするというのは、趣味と実益を兼ねているんです。
それにしても、将棋というのは、「才能の舞台」として本当に優れていると思います。狭い世界に天才が集って戦い続ける、かなり特殊な箱庭みたいな世界ですよね。
梅田 そうですね。将棋は、枠組みが単純なのに深いところがすばらしいんですよ。すべてが9×9のマス目の上に凝縮されていて、考える対象は盤上の次の一手。ルールは誰でも理解できる、非常にシンプルなものですよね。だから観ている方も、その思考のプロセスを一手一手追うことができる。
観戦記者は、控え室に君臨する。
加藤 梅田さんが書かれた『羽生善治と現代』(中公文庫)に収録されている「リアルタイム観戦記」を改めて読むと、控え室でいろいろな棋士に、「それを聞いてみたかった」というような突っ込んだ質問をしていますよね。どうしたらそんなことができるんですか?
羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる
(中公文庫)
梅田 第一にその一局で何が起きているかを伝えたいという使命感です。そして棋士に敬意を払うのはもちろん、距離感と親密さのバランスには気を使ってますよね。ただ、そこは僕が棋士たちのことを大好きなので、呼吸するようにやれるんです。
あとおもしろいのは、誰と誰との対局について書くことになるかは、すべて勝負の帰趨に委ねられているということ。この人を書きたいと気になる棋士がいても、その人が挑戦者にならなかったら、観戦記を書くタイトル戦で出会うことはありません。将棋って「連れて行かれるもの」なんです。
加藤 それは本の中で羽生さんもおっしゃっていますよね。将棋は自力でなんとかしようとしてはいけない他力本願的なゲームだと。
梅田 そう。対局でいえば、どんなに先を読んでも、相手の一手で全然別のところに連れて行かれて、斬り合いの勝負になったり、持久戦になったり、互いの玉(王将)が敵陣に入ってなかなか詰まなかったりと、さまざまな展開をしていく。観戦記者は、そこに一緒に連れて行かれるんですよ。事前に何を予想しても、その通りにはなりません。
しかも、観戦記者は、控え室のキングなんです。
加藤 キ、キングですか?
梅田 加藤さん、いきなりすごい立場で将棋を観ることになりますよ(笑)。将棋の対局は、新聞や雑誌を通じてファンに見せるために催されます。観戦記者はそのための大事な仕事だから、検討室にいる棋士たちは観戦記者をサポートしなくてはいけないんです。だから加藤さんは、棋士が集まってうわーっと検討しているさなかで、「いまの手って、どういうことですか?」って聞いてもいいんです。
加藤 うわ、そんなことしていいんですか。天才たちの検討に口を挟むなんて、なかなかできないことですよね。
梅田 そうでしょう。終局後の対局者に直接感想を聞くこともできるし、感想戦(※)で指し手の質問をしてもいいんですよ。そうしたら、森内さんや羽生さんが直接「この手はこういう意味で……」と優しく説明してくれるんですよ!
※対局後、それまで指していた一局を対局者が振り返って検討すること
加藤 ……おそれ多くて、話だけで涙目になってきました。僕が将棋を始めたころ、ちょうど島朗九段の『純粋なるもの』(河出書房新社)を読んだんですよ。あの本は、島さんと、若手だった森内さん、羽生さん、佐藤さんの4人の交友物語なんですが、あそこから今の名人戦につながっているわけで、考えただけでワクワクしますね。
梅田 彼らは、子どものころからのライバルですからね。
加藤 僕は棋譜並べが趣味で、森内さんと羽生さんの棋譜(対局の指し手の記録)はよく並べました。だいたい真っ向から読みがぶつかり合う勝負になりますよね。
実は僕、将棋を覚えた当初に、羽生さんの棋譜をデビューから2000年くらいまでの分をすべて盤上に並べて鑑賞したことがあるんです。だいたい800局くらいだったと思うんですけど。
梅田 そんなことしてるひとなかなかいませんよ(笑)。
加藤 梅田さんもご存知だと思いますが、棋譜を並べるのって本当にすばらしい体験なんですよ。天才の思考の履歴が目の前で見られるわけですから。それで、学生時代にとりつかれたように棋譜を並べていた時期があったんですが、やっぱり羽生さんの棋譜が断然おもしろいんです。
だから僕、編集者として、羽生さんには本の執筆依頼はできないなあと思ってきました。羽生さんの将棋を指す時間を奪うなんて、そんなことはとてもとても。でも1つだけ羽生さんに、引退後でいいから、ある本の将棋版をつくりませんかともちかけた企画があるんです。
梅田 ほう。どんな本ですか?
加藤 15年間チェスの世界チャンピオンだったガリー・カスパロフという人が、『My Great Predecessors』(私の偉大な先人たち)という本を書いているんです。引退後に書かれた本なのですが、過去のチェスの戦法の進化の歴史と、名プレーヤーのストーリーを一緒に解説しているんです。カスパロフは、若くしてチャンピオンになり、お金を稼いで、チームを組んで試合のために世界中を回っていた。そういうすごい経験をつんだ人が、チェスの物語の側面と技術の側面とアートの側面を一冊にまとめた、すごくおもしろい本なんです。これは何百年も残る本だと思うんですけど、これの将棋版を書くなら引退後の羽生さんしかいないんじゃないかと思うんですよね。
でも、今日お話していて、技術やアートの部分は羽生さんにお任せして、ストーリーの部分は梅田さんが、というのもどうかなと思ったんですが(笑)。
梅田 うーん、やっぱり最高峰の将棋を評価してストーリー化して書くのは、プロ棋士にしかできないのではないでしょうか。しかも、現役時代にトップに君臨するという実績をおさめた人がいいと思う。そういう高みから俯瞰するという話だったら、たとえば藤井猛九段とか。
加藤 なるほど。そういう話は、将棋の強い人が書くべきということですね。
1時間に1回、「これはおもしろい!」という出来事に出会う場
加藤 しかし、そんなに棋士のみなさんに協力していただけるなんて、観戦記者の責任は重大ですね。
梅田 それは、簡単な気持ちでは受けられませんよ。私も第七局の観戦記を担当しますが、2008年に自分が書いたものを超えられるのか、プレッシャーを感じます。でも森内さんと羽生さんの頂上対決なので「案ずるより産むが易し」かもしれません。あと、以前はウェブにアップするリアルタイム観戦記でしたから、対局当日は大変でしたが、その日で終わりでした。新聞の観戦記は、対局が終わってからもう一度、自分だけの対局が始まるようなものなので、未踏領域になります。
加藤 うう……今から緊張してきました。どうしたらいいんですかねえ。
梅田 いやあ、悩むだけ悩んだらいいんじゃないでしょうか(笑)。きっと、その現場に身を委ねていれば、何かが見えてくるはずですから。加藤さんは、前日から対局者とずーっと寄り添うことになるんですよ。夕飯も隣で食べるんです。しかも、第一局は地方ではなく東京で開催されるから、のべでいうと何十人という棋士が控え室を訪れる。そんな環境にいたら、自然にテーマが浮かび上がりますよ。
加藤 改めて考えると、すごい環境ですね。
梅田 対局室でも、控え室でも、1時間に1回くらい「これはおもしろい!」と思うことが起こるはず。それらを基点に物語が生まれると思います。もう、当日も前後も、気もそぞろで他の仕事はしていられないと思いますよ(笑)。今更ですが、よく起業して1年ちょっとという忙しい時期に、引き受けられましたね。
加藤 いやあ、これは引き受けない手はないだろうと思って、二つ返事で引き受けちゃいました(笑)。だって、こんな機会を断るなんて無理じゃないですか……。
梅田 うん、たしかに、ありえないですよね。まあ、ぶっちゃけていうとね、他のことは代わりがいますよ。加藤さんが風邪をひいても、つつがなく社会は回っていくでしょう。でも、観戦記は代わりがいないんです。こんなミッションを持って、対局を観ている人は他にいない。
(次回へ続く)
ルールを知らずとも将棋に惹かれる全ての人に贈る、渾身の羽生善治論!
![]() |
羽生善治と現代 - だれにも見えない未来をつくる (中公文庫) 梅田 望夫 中央公論新社 |
インターネットを読み解きつつ、将棋についても興味がわく必読の一冊。
![]() |
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる(ちくま新書) 梅田 望夫 筑摩書房 |