「お父さんに言いますよ」
子供の頃、母にこう言われるのが、一番嫌だった。私には弟が2人いるが、3人にとって父親は偉くて、怖くて、絶対の威厳を持っていた。あの頃、父の発する一言一言には、すごく重みがあった。父はなんでも知っていて、なにを聞いても教えてくれる。怖くても、私たちはそんな父を尊敬していた。
幼稚園の頃、毎週日曜日が楽しみで仕方がなかった。父が、私と、すぐ下の弟を、いつも喫茶店に連れて行ってくれていたからだ。駅の向こうにあったその喫茶店には、大きなカウンターがあって、その向こうに、いつも太ったおじさんとお姉さんがいた。席に着くと、必ずすぐにオレンジジュースと麦チョコを出してくれた。その他に、フルーツパフェ、チョコレートパフェ、クリームソーダのどれかを頼んでいた。
喫茶店の帰りは、よく、サンリオショップとおもちゃ屋に連れて行ってもらった。「なんでもいいぞ」父はそう言ってくれて、誕生日でもクリスマスでもないのに、本当になんでも買ってくれた。マイメロディのピンクの2段引き出し、スヌーピーの青いメモパッド、キキララの透明の3段ケース、七人のこびとのクリップボード、キティちゃんのホチキスなどは、私の宝物だった。友達にも羨ましがられて、とても嬉しかった。
現役を引退した父と母は、今、私たち家族の家から車で15分ほどの場所に住んでいる。家の中では、あっちの部屋とこっちの部屋でテレビを観たりしているが、基本的にずっと一緒で、多分、ちょっと持て余し気味だったはずだ。そんな中、私の娘が生まれたので、色々なことがちょうどよかったような気がする。
両親が「いつでも預かる」と言ってくれるので、私は娘を保育園には入れずに、打ち合わせの時と執筆集中の時に実家に預けるようにしている。夫が仕事で遅い日なども連れて行くので、時間は短くても毎日のように行き来がある。意識して両親のことを見ていると、私が子供の頃と比べて、二人の関係性も人間性も、随分変わったなあと思う。
今、世の中の夫婦の間では、「家事」が、揉める要素のひとつだったりする。「夫が、妻が、全然やらない」「役割分担を決めたのに、やってくれない」「なんで自分だけ」こんな不満は本当によく耳にする。
うちの両親はどうなんだろうと見ていると、ルーティンの中、どうやら自然になんとなく家事分担されているようだった。まず、朝ごはん。何十年も母が作るのが当たり前だった。でも、今はお互いが適当に作っている。「どうやって母が作らないようになったのか」と、母に聞いたところ、無駄に朝が早い父が起きても、母は起きたくなかったら起きないようにしていたら、父が自分で朝食を作るようになったとのことだった。
父が作るのは、いつも、チーズトーストとゆで卵とスムージーというメニュー。ゆで卵とスムージーは、ついでに母の分も作る。食べ終わってしばらくした頃、母が起きてくる。母は、パンを焼き、サラダを作る。それに父が作ったゆで卵とスムージーをプラスする。父が「食べる」と言えば、父のサラダもついでに作る。
朝食後、父はジムに行く。その間に、母は掃除をする。父が帰ってきて、洗濯をする。母が昼食を作る。その間に、父が洗濯物を干す。二人揃って、昼食を食べる。午後になると、父が買い物へ行く。夜は、母が夕飯を作る。そんな二人の生活を見ていると、見事だなあと思う。
昔の父は、毎日午前様で、家事なんて一切しなかった。母は幼い私たちを3人も抱えて、相当大変だっただろうと思う。それが二人の生活になった今、自然に半々の負担で、生活が成り立っている。私の娘の世話も、二人で協力してやってくれている。ご飯を食べさせてくれたり、本を読んでくれたり、言葉を教えてくれたり、お風呂に入れてくれたり、散歩に連れて行ってくれたり。私が行けない時は、習い事に連れて行ってくれる。
女子大学生になった上の弟の子も、しょっちゅう両親のところにいる。下の弟家族は、弟の駐在で、ジャカルタに行ってしまったのだけれど、帰国すると結構長い間、みんなで実家に泊まる。
そのジャカルタ組が帰国していた去年の夏休み。集合すると二桁になる家族が揃う夏休みに、母の古希のお祝いをすることになっていた。いろんな企画を考えていた時に、夫が「屋形船がいいんじゃない?」と提案してくれた。日頃お世話になっている方々とそのご家族にも来ていただいて、屋形船を貸し切りにして、お祝いしていただくことになった。