「親戚のオジさんに会いたくない」に似ている
トークイベントのために四国・高松に来ている。昨日の朝、喫茶店の低いテーブルを6人で囲みながら朝ご飯を食べている時に「坂上忍のことをどう思う?」と聞くと、皆が口を揃えて「嫌い」「うるさい」「ウザい」といった直情的な感想を並べた。この手の嫌われやすさを坂上忍自身は自覚していて、そんなこと言われても別にオマエらに気に入られるためにやってねぇよ、とまんざらでもない様子。でも、口を揃えて投じられた「嫌い」を深追いしてみると、嫌われることを自覚している様子こそ嫌いなようなのだ。
おもむろに1人の女性が「親戚のオジさんみたい」と言う。数年に1回くらいしか会わない親戚のオジさんって、往々にして、自分の中で凝固した価値観の賞味期限を確かめずに自信満々に投じてくる。仕事でも結婚でも友人関係でも、自分の引き出しから「こういうふうにするもんだ」と強制的にレクチャーしてくる。20年前の『東京ウォーカー』で紹介された記事を貼り続けているラーメン屋のような「自信満々の更新」にシンパシーを感じるはずもない。「あの親戚のオジさんにはできれば会いたくないな」との思いが、会う度に強くなってしまう。価値観が合わない、ではなく、価値観とは更新されるものではない、という結論が合わないのである。
更新されない正論
トークイベントが、ちょうど価値観について議論の及ぶものになった。とりわけ家族という価値観。家族の役割を旧来の枠組みに差し戻そうとする風潮はまだまだ強いし、むしろ時の為政者は、がむしゃらに差し戻そうとしているけれど、むしろその役割ってもっともっと分散されるべきではないか、友人等にも家族的な役割を拡大してみるべきではないか、という話にもなった。あれこれ話し合った翌日、坂上忍『スジ論』(新潮新書)を開くと、その章タイトルやコラムタイトルに「価値観を押しつけるのがオヤジの義務」「親の基準が子供の目安になる」などとあるのだから、うなだれてしまう。
坂上は一通り「今時の若者達」への物足りなさを語った後で、「『今時の若者達』をひと括りにして非難する前に、我々オヤジが嫌われる覚悟を持って彼等に伝える方が先なんじゃないかとおもうわけです」などと語る。この感じが、いかにもズルい。無理解を晒した後に、理解しているよと返す。晒すのも理解を示すのも自分だから、そのやりとりってそもそも珍奇なのだが、持ち前の声の大きさやキャリア等々が接合され、あたかも正しい論として稼動している。彼自身は「嫌われても正論を言う」というスタンスでいるが、周囲の多くは、「その正論が更新されていないから嫌い」と思っている。
ダメなものはダメと言う大物の傲慢さ
松本人志が『ワイドナショー』(5月21日)で共謀罪について「僕はもう、正直言うと、いいんじゃないかなと思っている」と賛成の姿勢を示した。この見解に全く賛成できないが、さすがに呆れたのは、この共謀罪が犯罪を未然に防ぐために使われるならば「冤罪も多少はそういうことがあるのかもしれないですけど……」と言ったこと。言うまでもなく、罪無き人を誤って逮捕してしまうことを「多少はそういうことがあるのかも」と片す姿勢って、絶対に認められるべきではない。この「冤罪も多少は……」発言は放置されている。俗っぽく言うけれど、大物の意見に甘すぎではないか。
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