今年3月、京都の書店での朗読会で、雨宮まみさんとの出会いについて話していたときだった。
不意に「推薦のエッセイを朗読してほしい」と司会の方に頼まれた。突然のことに面食らいながらも、『わたしたちの猫』に寄せてもらった雨宮さんのエッセイを一部読み上げた。
朗読の後、「雨宮さんの文章は、どんな内容であっても品があって、気持ちを溶かしてくれる。お薬みたいなんです」と口をついて出る。
恋はすべてどこまでも片思いだ。(中略)
ひとは誰かに自分を、認めてほしいのでも褒めてほしいのでもなく、「確かめてほしい」のだと思う。
雨宮さんの言葉は、読者である私の思いをきっぱりと肯定してくれた。
〈ひとと関わらなければ、ひとに輪郭は生まれない〉。互いに〈輪郭〉を与えては、新しくそれを結び直していく——恋愛関係、ないし人間関係とは、そのようなものだろうか。
2017年5月15日 雨宮まみさんの半年命日会にて 著者撮影
「わたし」を生きること
まだ10代の頃、「若死にすれば、詩人として名を残せるよ」と冗談で言われることが少なくなかった。未だに告げられるその言葉を、25歳の私は「夭折するにも中途半端だから、できるだけ生き延びてみせます」と笑い飛ばす。
そう切り返しながらも、どこかで傷ついている。自分の「生き死に」が他者の手で物語化されてしまうことへの、身勝手に語られてしまうことへのかすかな違和感。「死」の訪れなんて自分自身にも操作できないのに、死によって人生の結末は決まってしまう。その理不尽さに戸惑う。
私にはどうしても気にかかる事柄がある。
雨宮さんが亡くなって以降、幾度か「雨宮さんの死に対する志向性にシンパシーを感じてきた」「自分も雨宮さんのように死んでしまうかもしれない」という同世代の女性と出会ってきた。