終章
2017年、東京に春がやって来た。
宇多由里子は都内の商社に勤めている。
友人の紹介で会社に入り、今年で3年目だ。キャリアは浅いが、持ち前の機転や利発さが上司の目にとまり、企画設計など、責任のある仕事を任されている。
優秀なぶん、仕事は多忙だ。
納期が迫っているときは、帰宅は夜の11時を回る。
「ああ、今日も忙しかったー」
マンションの玄関を開けた途端、誰もいないのに呟いた。
残業禁止の厳しい昨今。6時きっかりに会社を出なくてはいけないので、同僚と一緒に会社近くのコワーキングスペースで、仕事の続きをしていた。
コンビニの袋を、エントランスのシューズボックスの上に、どさっと置いた。
「残業しているのと同じじゃん。会社も本当、バカ」
と言って、飾ってある写真を見た。
福岡県八女市の岩戸山古墳で撮ったものだ。
森を背景に、由里子がひとり、ピースサインで写っている。
誰かと腕を組んでいるような体勢だが、隣には誰もいない。
数年来の友人の杉作くんが撮ってくれたらしいのだが、杉作くんも由里子自身も、なぜそんなところで写真を撮ったのか、そして自分たち以外に誰かいたのか? 思い出せなかった。
「こんな写真、持っててもしょうがないんだけど……なんでか、捨てられないんだよね」
ぽっかり空いている隣が、由里子はずっと気になっていた。
大事な誰かが、一緒に写っていたような気がする──と、心のなかで思った。
部屋に上がり、テレビを点けた。静寂だった部屋にCMの賑やかな音声が広がった。
スマホのLINEに、通知があった。
兄の健史からだった。
〈もう帰ったか。仕事はどうだ?〉
由里子はさっそく返事する。
〈充実してるよ。お陰さまで〉
返信がすぐ入る。兄もいま、時間が空いているのだろう。
〈そろそろサラリーマンなんか辞めて、僕の事業を手伝えよ。給料は5倍ぐらい出すよ〉
健史は、由里子など及ばないほど、多忙な人だった。
コンサルティングや社外役員のほか、さまざまな投資事業を手がけている。年じゅう海外を飛び回っていて、最近は妹とも、なかなか会えていない。
健史は近年は、宇宙事業を本格的に進めている。由里子にはよくわからないのだが、グローバルサイズの大きな事業のようだ。ロケットの発射実験も、国内で何度か成功させていた。
健史は、事業がうまくいけば由里子を世界初のロケット女子にしてくれると言っていた。そんな夢物語を、夢で終わらせないよう、着実にビジネスを進めている兄が、由里子は誇らしかった。
由里子は微笑んで返信した。
〈またそんなこと言って。単純に人手が足りないだけでしょ〉
〈まあな。僕の代わりに完璧に仕事をこなしてくれる、若いヤツが欲しい〉
〈都合よく、そんな人いないよ〉
〈少し前に、いたような気がするんだけどな〉
という兄の返信に、ふと手が止まった。
兄の文章が続く。
〈ま、気のせいだ〉
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