お前は戦わなければならない、
ここから。
パウル・ツェラン
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第一章 生き返った男
1 《Save Me》
病院の受付で、空白だらけの問診票を提出しながら、徹生は、「電話で先生に、事情は説明してありますので。」と言い添えた。
看護師は、「
言われた通りに黒いソファに腰を下ろしながら、彼は、『——大丈夫、きっと助けてもらえる。』と、不安を押し殺すように自分に言い聞かせた。
それから、名前を呼ばれるまでの間、彼は広い待合室で、自分が一歳半の時に急逝した父親のことを考えていた。
彼の父、土屋
いつかは自分も、その歳を迎えることになる。それがまさしく、今年だということに、彼は先ほど、問診票の年齢欄を前にして初めて気がつき、愕然としていた。
今この隣に、死んだ時の父が並んで座っていたならば、その父は、自分と同い年なのだった。
彼は、鏡を振り返るように、ゆっくりと、誰もいない傍らに目をやった。
父の存在が、突然、肌身に近く感じられた。写真で見知っている姿が、曖昧に脳裡に浮かぶのではなく、一瞬、肩同士が触れ合い、押し合うような、重たく生温かい感触があった。
そんなふうに父の存在を意識したことは、これまで一度もなかった。
どんな言葉を交わすのだろう? 普通に同い年の男と話すように喋って、会話は弾むのだろうか?……
徹生は、幽霊や死後の世界といったものを一切信じない人間だった。彼はそのことで、中学生の時には、級友と殴り合いのケンカまでしたことがある。
中学三年の時のクラスには、昼休みになると、いつも教室の片隅に集まって〝こっくりさん〟に興じる、妙なオカルト好きの生徒らがいた。その場所が丁度、徹生の席のすぐ後ろだった。彼はしばらく、それを無視していた。が、ある日到頭、我慢ならなくなって、唐突に机を叩いて振り返ると、彼らに向かって、お前たちのやってることはみんなインチキだと、真剣そのものの表情で言った。
十円玉が、聞き返すように、「は」という文字の上で止まった。参加者たちは頰を引き攣らせて、口々に、それは霊感の鈍いヤツの僻みだとか、科学にもまだ証明できないことがあるといった、お決まりの反論をした。徹生は、押し返すように声に力を込めて言った。
「いいか? 俺の親父は、俺が一歳の時に死んどる。けど、俺は親父の幽霊なんか、いっぺんも見たことないぞ! もしあの世だとか、幽霊だとかが存在するなら、親父は絶対に、この俺の前に出て来とる。母親に会いに来とるわ! けど、いっぺんだって、俺は親父の幽霊なんか見たことないぞ! 天国とか幽霊とか、そんなもんみんな、戯言だ。あってたまるか!」
徹生の言葉に、そもそもこっくりさんを教室に持ち込んだ、青白いオカルト・マニアの級友は、それはオマエの父親の家族に対する思いが薄かったからだと理屈をつけた。
徹生が思わず手を出してしまったのは、その瞬間だった。
徹生は決して、ケンカっ早い男ではなかった。人を本気で殴ったのは、後にも先にもその一度きりで、スッとするどころか、心底嫌な気分だった。すぐに後悔したし、思い返す度に、いつも歯を食い縛って、その光景が頭の中から消えるのを待たなければならなかった。
子供の頃は、彼も人並みに、オバケを恐がっていたはずだった。しかし、死んだ父親が出て来ると思ったことは一度もなかった。
母の恵子は、「おとうさん、しんでどこにいったん?」と訊かれると、空の上だとか、お墓の中だとか、或いは、遺された人の心の内だとか、色々なことを言った。徹生はその度に、なんとなくうれしくなって納得したが、天国だとか来世だとかの話を耳にするようになると、父親はきっと、そういう世界にいるのだろうと考えるようになった。
彼は毎日、布団に入ると、「おとうさん、おやすみなさい。」と、誰にも聞こえないように小声で言ってから目を瞑った。しかし、父からは何の音沙汰もなかった。
ある時彼は、試しに、考えつく限りの悪口を言って、しばらく反応を待ってみた。
もしその翌日に、例えば道を歩いていて、小さな石ころにでも躓いていたならば、彼はそれを一つの〝しるし〟として、一生信じ続けたに違いない。しかし、そんなこともないままに月日を経るうちに、いつとも知れず、父への就寝の挨拶も止めてしまった。それがつまりは、彼の結論だった。
徹生は、死んだ父が、遺された母と自分のことをどんなに深く思っていたか、それを知っていたからこそ相手を殴った、というのではなかった。そうではなく、知ろうにも知りようがなく、ただ信じているしかないことを否定されて、カッとなったのだった。
殴ったのは相手の顔だったが、本当は、言葉そのものを殴りつけたかった。
以後、徹生は金輪際、人と死についての話はしないと心に決めていた。そういう話題になっても、聴かないフリをしてやり過ごしたが、考えそのものは変わらなかった。
死後の世界は存在しない。幽霊も存在しない。人間は死ねば終わりで、あとには骨しか残らない。それは、よく角が取れた川原の小石のように固い彼の信念だった。
四年前に、徹生は図らずも、もう一度だけ、死後の世界について、人と語り合う機会を持った。
高校時代の同級生で、互いの結婚式にも出席し合った友人の妻が、全身にガンが転移して、余命宣告をされた時だった。彼女はその時、まだ二十八歳だった。
見舞いに行った病室には、生きるために必要な一切を乱暴に搾り取られてしまったかのような、瘦せ細った彼女の姿があった。
友人の話では、余命は四ヵ月で、残すところあと一月ほどしかなかったが、彼女はそもそもの余命を、実際より三ヵ月長く医師に告げられていた。そういう配慮が患者のためになるのかどうか、彼にはよくわからなかった。
辛うじて起き上がって、ベッドの背に凭れていた彼女は、徹生に向かって言った。
「ねえ、てっちゃん、……人間って死んだらどうなるの? 死後の世界ってあると思う?」
徹生は、彼女の表情を見つめた。その一瞬の、ほんの微かな笑顔のために、彼女に残された本当に貴重な命が、音を立てて燃えてゆくのを感じた。
「てっちゃんのお父さんも、早くに亡くなってるでしょう? 天国から見守ってもらってるとか、……そういうの、感じたことある?」
徹生は、彼女から目を逸らさないまま、
「うん、あるよ、やっぱり。いつも空の上から見守られてる感じがしてた。」と言った。
「本当? 天国なの、それは?」
「天国なのか、何なのかはわからないけど、そういう世界だよ、きっと。」
「そっかぁ。この人と違って、てっちゃんは、本当のことしか言わないから、わたし、信頼してるの。天国に行ったら、この人に内緒で、てっちゃんにだけこっそり信号送るね。」
「ヤキモチ焼かれて大変だよ。」
「いいの、いいの。いつもわたしがヤキモチ焼かされてたから。子供には、わかるのかな? それだけが心配。あの子、小さいから、まだ。」
「わかるよ、きっと。純粋だから、子供の方が。」
病院から帰る時、徹生は、玄関まで見送りに来てくれた友人に、泣いて感謝された。彼が涙を流すのを見たのは、結婚披露宴の最後の挨拶の時と、この時と、そして、丁度一月後の葬式の時の三度だけだった。
徹生は、あの時の噓のことを後悔していなかった。
目の前で、懸命に死の恐怖に耐えようとしている一人の人間が、ただ天国を信じることだけを心の支えとしている。そんな時に、どうしてそれを「戯言」などと言えるだろうか?
それでも、「てっちゃんは、本当のことしか言わない」という彼女の言葉は、彼の中に重たく残った。
そしてやはり、彼の本心は変わらなかった。
父だけではなかった。現に彼女も、死後、彼に「信号」を送ってくれたことは、まだ一度もなかった。そして、それを待ち続けようという気持ちに、彼はどうしてもなれなかった。
「……いいえ! あの人にはもう、梅干しはあげません。去年、せっかく分けてやったのに、あとで道で会っても、知らんぷりで、挨拶一つしないんですから。……」
平日の午後の待合室は閑散としていたが、一つ前に診察室に入った老婆が、ここ最近の生活を残らずすべて医師に語って聞かせていたので、徹生の名前はなかなか呼ばれなかった。医師は、少し面倒臭そうにその長話につきあっていたが、中断しないのは、自分に会うのを先延ばしにするためではないだろうかと訝られた。
老婆の話から耳を遠ざけると、彼は、向かいのソファに置かれたスポーツ新聞に手を伸ばしかけた。そして、その広告欄の週刊誌の見出しに、息を呑んだ。
〈奇跡!? 死んだ人間が生き返った! 全国各地で続々と!
驚天動地の衝撃レポート 第一弾!!〉
落ちつきかけていた不安が、また昂じてきた。耳まで火照って、背中の一面から汗が吹き出した。
今ここで、自分が身を置いているこの平穏。孤独な老婆が、かかりつけの医師に、近所の主婦の礼儀知らずを、
「ねえ、今どんな気持ちですか?」
徹生は、その顔の見えない相手に対して、反射的に拳を握り締めた。昼休みの教室で、あの同級生を殴った時と同じように。気分を鎮めようと深呼吸をして、彼はポケットからiPodを取り出した。再生されたのはクイーンの《Save Me》だった。