1本の電話
ビンセントは1955年10月生まれ。西島と同学年だ。レイクサイドハイスクール時代からプログラマーとして頭角を現し、ハーバード大学に進学。学費は仲間とのポーカーで稼いだ。大学ではほとんど授業に出ない代わりに、学内のパソコンを使って市販のプログラムを使いやすい仕様にまとめたり、基本ソフト「BASIC」の開発を手がけた。
BASICは、たちまち大手企業に採用された。ビンセントはBASICを売るためにハーバードを辞め、マクロソフトを起ち上げたばかりだった。
写真で見るビンセントは、ひょろっとした、オタク丸出しのメガネ青年だった。世界一の富豪になる、ITビジネスの王者の未来像が信じられなかった。
西島は、興奮気味に言った。
「BASICは、ほんまにすごいんや。たぶん全世界で通用するOSの基になる。俺、こいつから販売権を買おうと思ってるんや!」
「え、マクロソフトを買収?」
「ちゃうって、さすがに無理やろ。俺が買うのは日本での販売権。BASICはまだ日本国内に入ってきてない。どこよりも先に、うちで販売を独占したら大儲けや!」
「でも、出版事業のほうは?」
西島は、拳をぐっと握った。
「もちろん続けながらや。アーキテクトは出版だけやなくて、販売も手がける。多角経営が、ビジネスのこれからのスタンダードやで!」
俺は訊いた。
「勇ましいのはいいけれど、交渉ルートはあるんですか?」
「おお、余裕や。こないだ話した」
「へ?」
「ビンセントに直接、電話したんや」
頭がくらっとした。
西島はアメリカの電話会社に問い合わせ、「マクロソフトの番号を教えてほしい」と頼んだら、本当に教えてくれたという。
電話をかけたら、ビンセント本人が出たらしい。時代だな、と思った。
「いきなりワケのわからんジャパニーズが電話してきて、向こうは面倒くさがっとったな。でも引くわけにはいかん。とにかく勢いでワーッと自己紹介して、マクロソフトのBASICの日本での販売権をくれ! と。日本は巨大マーケットに化けるで。うちと組めば絶対おたくらの得になるから、って口説き倒したわ」
目に浮かぶ。女性を口説くのと同じエネルギーでまくしたてたのだろう。
「うまくいったんですか?」
「それがやな。ビジネスの話はさておき、喋ってたらウマが合うてな。学校の勉強はクソやとか、パソコンは人類をバージョンアップするとか、考えとることが似とる。おもろいヤツやなってことで、『1回会わへんか?』と言うてきた」
「ええっ!?」
「マクロソフトの本社があるアルバカーキに来いって。というわけで来週、行くことにしたわ」
ITの覇権を取る若き日のビンセント・ゲイツと、面識がないのに直接電話して、アメリカに飛び、会いに行く。行動力がありすぎると思った。
西島が言った。
「それで相談なんやけどな。あっちはビジネスの本場や。俺ひとりで行ったら、小物に見られる。カバン持ちぐらいは必要や。優作、一緒に来い」
「ええっ!? 古畑さんとか成田さんがいるじゃないですか」
「あいつらは仕事を休んでもらったら困る。それにパシリと変わらん後輩とか、無愛想女とアメリカ旅行なんて、つまらんやろ」
かといって俺を誘うか。出会ってから、まだ1日も経っていないのに。
「行くやろ? 断る理由ないよな。無職やし」
遠慮を知らないというか、自分本位というか……有無を言わさず他人を巻きこむ、西島の強引さには、負けた。
西島はキラキラの爽やかな笑顔で、言った。
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