荷物は全部捨てろ
ふたりが知り合ってほどなく、成田に西島が「マイクロコンピューターの雑誌をつくりたいんや」と言ってきた。資本金を用意できたから、一緒に出版社をやらないか? という。当時はあまり例がない、学生起業の先駆けだった。
活字媒体にも興味があった成田には、魅力的な誘いだった。就活してどこかの会社に勤めるにしろ、面倒な人間関係に神経をすり減らすだろう。だったら最初からトップに近いポジションで、会社をやった方が楽しいんじゃないか? と思った。
そして西島が社長、成田が取締役専務でアーキテクトを創業した。
一方、古畑は少し違うルートで西島たちと出会った。
「僕はまあ何というか、気づいたら西島さんに、さらわれたみたいな感じですよね」
古畑は成田と同じ、1957年生まれ。西島のふたつ後輩だった。
成田と同じ、東京生まれ。父親は銀行員で、西島と同じように裕福な家庭だった。性格はまるでバラバラのようだが、3人はところどころ似通っている部分がある。
古畑は港区の全国的に知られる中高一貫のA学園に通った。後に東大法学部を出て弁護士になった兄のように、エリートコースを歩むはずだった。
しかし古畑は、英語だけはダメだった。理数や古文など丸暗記が通用する教科はよくできたけれど、国立大学に進むのに英語が弱いのでは、苦戦を強いられる。東大ほか一橋、中央など有名どころを受験したが、現役では失敗。一浪して再チャレンジするも撃沈で、都内の私立大学に合格した。
古畑の趣味もまた、メカいじりだった。
家でひとり、はんだごてでデジタル時計やデジタルのおもちゃを組み立て、遊んでいた。高校と浪人時代から、しばしばエレクトロニクスの部品を買いに、ジョイント・インターナショナルに通っていた。通い詰めた挙げ句、古畑はショップでアルバイト店員として雇われていた。
古畑は、優秀な組み立て屋だった。
例えば米軍基地にトラックでテレタイプを引き取りに行った。仕入れ値はだいたい3000円。それを独学で、電源やフロッピーディスクドライブ、電動タイプライターなど、いろいろパーツを組み合わせてパソコンをつくった。古畑のカスタマイズしたパソコンは、飛ぶように売れた。30万円の値を付けても売れた。秋葉原のマニアの間では、古畑は有能”カスタム屋”として、かなり知られる存在だった。
その上客のひとりが、西島だった。
「お前めちゃくちゃパソコンに詳しいやんけ! もっと新しいこと、教えてくれや!」
とキラキラと目を輝かせて、古畑との仲を深めていった。
パソコンの情報を交換する日々のなかで、西島はパソコン専門誌「ARCHITECT」を創刊した。雑誌の発行で忙しいなか、西島はたびたびアメリカに出かけていた。しかも彼が搭乗する席は、必ずビジネスクラス以上。そんなお金を、どこから出していたのか?
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