1970年ころの左翼陣営に多くの支持が集まっていたのは、社会の気分によるものだ。わが国では、ほぼすべてのことが気分で決まっていく。政治家も、社会の気分を見誤ると、あっさり支持を失う。
1970年当時の、日本社会の気分といえば、「ニッポン、まだまだだな」というあたりだとおもう。戦争に負け占領されて25年(占領解放からならまだ18年)、すごくがんばったし、かなり豊かにはなっているけれど、でもいまの生活でいい、と満足している人はそんなにいなかった、そういうレベルである。
つまり、貧しかった、ということだ。いまの生活のままでいいとはおもえなかった。それはおそらく、敗戦直後と比べると生活が格段によくなっているからこそ、もっとよりいい生活を目指していたのだという欲望の問題だとおもう。
現状に満足している人が少なく、不満が多い状態だった。
この不満を、中学生の私も少し共有していたわけだけれど、それはどこで解消されたのかを考えてみると、やはり1980年代である。生活が豊かになり、自分なりの贅沢ができるようになったころ、不満を持たなくなり、社会党や共産党に投票しなくなっていった。気分に支えられた政治的活動というのは、そういうものであるし、そういうものでしかない。
豊かな生活ができるようになったら、社会そのものへ怒りをぶつけようとしない。
豊かな生活というのを、1972年の中学生の気分から眺め直すと、具体的にまず浮かぶのは二つである。
「真夏は、どの屋内に入っても、どんな電車に乗っても、必ず冷房が効いていること」と「真冬の夜中でさえ、おもいたてばアイスクリームを買って食べることができること」、この二点だ。私にとってはそうである。そういう社会になったころ、社会全般に対する不満、というのを抱かなくなっていった。(つまり1972年は、電車に冷房が入ってないと文句を言ったり、真冬の夜にアイスクリームが食べたいと言っても、鼻で笑われ、相手にされなかった、ということである)。
1970年ころの日本で、左翼的思想が圧倒的に支持されていたのは、みんながまだ自分たちは貧しい、とおもっていたからである。貧しい時代には、左翼思想は魅力的に感じられる。欧米に追いつけとおもっているころは、みな、左翼的であった。
欧米に追いついたと言われ始めたころ(欧米側から言われた)、何気なく、ふつうに左翼思想の支持をやめていった。職業としての左翼文化人はすぐさまにその立場を離れるわけにはいかなかったが、しかしその登場回数がへっていくことになる。1970年代は、戦後史において、左翼陣営の動きが活発だった最後の時期となる。
この当時の、左翼陣営の思想が魅力的に見えたのは、複数の要素がある。
ひとつは先にのべた「よりよい社会を作るための唯一の運動」に見えたところである。
よりよく生きたいと考える人が引き寄せられる。善良な考えや、純粋な人たちを惹きつける要素である。
その戦略は「力あるものに反抗する」という態度で示された。
周辺の大人のいろんな強制的な言辞に辟易としてる十代の少年にとっては、〝大人になっても反抗する人たち〟にはとてもシンパシーを感じてしまう。大人として見てみると決定的な弱点に見えるポイントが、若者にとっては自分たちの味方に見えたのである。ついでに言えば、長髪でフォークソングを歌う姿は、反抗的でとても左翼的だった。若者に人気のミュージシャンは、基本、左翼的な存在だと信じていた。極端に言えば、ジーンズを穿いているだけで左翼的な気分になれたのである。
また、「進歩的」だったので、知的に見えるところが魅力的であった。
実際に知識人と言われる人たちが多く参加していた。知的な人たちが左翼的立場から批判的言辞を繰り出すのを見かけることも多かった。それは逆に「左翼思想を語ると賢そうに見える(かも)」という妄想につながっていく。実際にそういう知的さに魅力を感じて、先端的なスタイルに見えるから左翼思想を語ったという若者も多かったようにおもう。
下世話にいえば「進歩的左翼思想を語っていれば、女にもてそうだ」という選択である。もてるために左翼思想を学んだという人間はあまりいなかっただろうが、左翼思想を語ると女子が真剣に聞いてくれるので、より肩入れした、ということはしばしばあったようにおもう。
はやい話が「左翼がかっこよかった」ということに尽きる。
1970年当時、右翼がかっこいい、という風潮はほぼなく、左翼がかっこいい、という空気しかなかった。なければ、あれほどは盛り上がらない。
ちなみに、1970年の11月に三島由紀夫が自衛隊クーデターを訴え、切腹して介錯させる、という衝撃的な事件があったが、左翼的思潮が主流の当時としては、この明確な〝右翼的行為〟に世間の反応はけっこう冷たかったように記憶している。驚いてはいたが、賛同の声は聞いた覚えがない。11月25日事件当日、中学一年の私が家へ戻ったときに三島由紀夫と同年の私の母が発した第一声は「あんた、三島由紀夫が、ケッサクなこと、しはったで」であった。(京都人です)。うちの母の言葉遣いは独特で、「ケッサクなこと」とは、驚いたときに常用していたセリフである。驚きを表しているが、少し突き放した部分と、少しおもしろがっている部分がある。三島由紀夫の死は、ケッサクなこと、といわれる始末であった。
左翼思想は「反戦・護憲」を前面に掲げており、「新しく素晴らしい戦後民主主義を守る」という立場を強く訴えていた。戦後社会を善と考える立場からは、圧倒的に支持すべき思想であった。 左翼系エリアでは、当時は、政権が本当に戦前のような体制を作りたがっているのではないか、と信じているところがあった。
いまあらためて、憲法に関していえば、自民党が結党当時から主張しているのは、日本の憲法の条文を日本人によって書き直したい、ということだろう。占領下に頭のいいアメリカ人が作文した憲法を、今後、祖法として千年守っていく気にはなれない、という自尊心の問題でしかないようにおもう。
また、戦争に関しても、政府が、全国民を総動員した先のような世界戦争を起こせるはずもなく、また起こす気もないはずである。政府が積極的に戦争をしたいと類推する根拠も状況もまったく見当たらない。(だいたいどの国と戦うというのだ)。いまならそれはわかる。しかし1970年当時、そういう説明をしてくれる人は見当たらなかった。どこかにいたのかもしれないが、まず見つからなかった。目を離すと、政府は戦争を仕掛けようとするし、権力とはそういう怖いものであるというイメージしか抱いてなかった。どっかがおかしかった、としか言いようがない。
左翼思想の「反戦・護憲」はじつは政府と対立さえしていない、ということが、こうやって並べてみればわかる。同じ地平に立とうとしていない。おそらく直接的な議論を避けているだけなんだとおもう。
当時、左翼をかっこいいとおもって支持してる面々も、べつだん、反戦や憲法改正反対を命がけで訴えていたわけではない。多くの場合、ふたたび徴兵制が復活して、自分や恋人や家族や子供が理不尽な戦争に駆り出されて、無意味に死んでいくかもしれない、と妄想して、ひたすら反対していただけである。どこまでも過去の反復であり、被害者の妄想の域を出ない。宇宙人を怒らせて地球人が殲滅される恐れがあるから、月へ人間を送るな、と言ってるのと、あまり変わらない。反戦派にもさほどの実感はなかった。彼らが言いつのっていたのは、大東亜戦争への時間差の不満でしかなかった。
理屈や理論の崇高さだけに憧れて、左翼を支持していたわけではない。
どちらかと言うと、スタイルに憧れていた。賢そうだけど反抗的、というスタイルに憧れていた。いつの時代でも若者が憧れるポイントである。 さらに、大義のために身を捨てることができそうだ、という英雄的な部分と、革命と聞いてその破壊的な祝祭は何だかおもしろそうだ、とおもった部分も大きかった。
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