四階のバーではすでに打ち上げが盛り上がっている。
なんとか窓際のカウンター席を確保し、幸一郎はグラスワインの赤を、華子はミモザを注文した。グラスが運ばれてくると、
「まあ、じゃあ、一応」
幸一郎が気まずそうに音頭を取って、静かに乾杯する。
華子は一口ぐっと呷るなり向き直って、
「幸一郎さんあの」
と話しかけるが、それを遮って幸一郎の方が、
「華子、悪かったな、いろいろ」
先に口にしたのだった。
華子は頭をぶんぶん振って言った。
「それはこっちのセリフです。全部わたしのせいですから。わたしのわがままであんなことに……」
必死に声を絞りだすも、
「ごめん、全然聞こえない」
幸一郎は笑いながら言った。
店じゅうに人々の声がさんざめいて、お互いの顔を近づけて話さないかぎりなにも聞こえないありさまだ。
「華子はいまはヴァイオリニストのマネージャーかぁ。華子にそんなことができたなんて、なんか信じられないな」
などと軽口を叩き、「いやごめん。でもさぁ」と笑いかける幸一郎は、東京にいるときよりも気が抜けて話しやすい。東京にいるときの幸一郎はもっと人と距離をとったし、どこか冷たい感じが否めなかった。
「マネージャーってわけではないんです。相楽さんは事務所に入らず、ずっと一人で演奏活動しているので。でも、ただで住まわせてもらうのも悪いから、いろいろ手伝っているうちに、ちょっと楽しくなってきて」
華子は別れた幸一郎の前で、いまが楽しいという本音をこぼしてしまい、内心焦った。離婚した女は辛い目に遭って罰を受けなきゃいけない、一生幸せになってはいけないと、さんざん幸一郎の母になじられたのに。
仕事内容をあれこれ話していると、
「華子がギャラ交渉できるなんて信じられないな」
幸一郎が大笑いする。
「できますよ! ちょっと吹っかけるんです」華子は恥ずかしそうにこたえつつ、「これでもけっこう向いてるんですよ、わたし」と胸を張ってみせた。
実際、華子は驚くほどこういう仕事が合っていた。誰かの世話をし、支え、尽くすことでその人が輝くと、得も言われぬ喜びを感じる性分なのだ。自分はあくまで裏方に回って、表舞台に立つ人をバックアップするのが得意。華子自身、ようやく少し、自分のことがわかりはじめている。そしてなぜ幸一郎とはこういう関係を築けなかったのかと、ふとした瞬間に思い出すこともあった。よい奥さんと、いまの自分。尽くす相手が違うだけで、やっていることはほとんど同じはずなのに。
「華子がそんなしっかり者だったなんてな」と幸一郎。
華子も、かつての自分がいかに頼りなかったか、重々承知している。とても社会を独力で泳いでいけるようなタイプではなかったし、流れに乗っているだけで、自分の意志すらあやふやだった。まさか働くことにここまで生きがいを感じるなんて、誰より華子自身が驚いていた。
「華子、いくつになった?」
「三十歳です」
幸一郎はワインを吹き出しそうになりながら、
「華子が三十代とか、マジで想像つかないな」と笑う。
「でもわたし、いまの方が生きやすいかも」
華子は愉快そうに言いながら、「いまの自分の方が好きだし、毎日が楽しい」と、心のなかでつけ足したのだった。
「なあ、ここうるさいから、ちょっと外行かない?」
幸一郎の誘いに、
「そうですね」
華子も乗った。
二人して抜け出し、ホテルの外に出ると、今度は耳をつんざくような虫の声が辺り一面から聞こえる。山は真っ黒で恐ろしいくらいだが、星は空一面にまたたいて、美しかった。華子が「プラネタリウムみたい」と感動していると、幸一郎が「いやいやいや、プラネタリウムのがフェイクだから」と笑う。
駐車場の先にある東屋まで歩き、ベンチに腰を下ろした。
「けっこう冷えますね」
腕をさすっていると、幸一郎は着ていたジャケットを脱いで華子に渡した。
華子は少し戸惑い、照れながらも、それをすっぽりと羽織る。ジャケットからはほのかに体温が感じられ、なんだかドキドキしてしまう。
それから二人は、たくさん話をした。出会った日のこと、軽井沢旅行、はじめて神谷町の実家に挨拶に行ったときの張り詰めた空気。そして結婚式。ほとんど幸一郎が帰ってこなかった新婚生活。いまならそれらを全部、笑い話にすることができた。
「そういえばいまだから訊くけどさぁ、結婚式に時岡美紀……いなかった?」
「わたしが招待したんです」
華子はちょっとこましゃくれた顔で、ようやく種明かしをした。相楽さんが偶然二人の関係を知ってリークしてきたことや、時岡美紀と三人で会って話したこと。結婚してから、一度だけ相談を持ちかけた日のことまで、華子は包み隠さず話した。
「時岡さんて、素敵な人ですよね。なんか、すごく大人だった。旦那さんの元カノに、結婚生活の相談持ちかけるなんて、いまから思うとわたし、ほんとめちゃくちゃだったなぁって。よっぽど追い詰められていたにしても、すごく身勝手なことをしているのに、時岡さんは快く受け入れて、たくさん話してくれて」
「なに話した? 共通点ゼロだろ」
華子は首を振り、こう続けた。
「いいアドバイスいっぱいもらいました。それから、いろんな視点ももらいました。彼女と話してると、自分がどれだけ狭いところで、守られて生きてるのか痛感したし、そういう自分がダサくて、嫌にもなって。わたし、一人で生きていくなんて絶対できないと思ってたんです。誰かに頼るしかないから、結婚にいっぱい期待していたんです。わたしの周りには、そういう人しかいなかったし、そういう生き方しかないって思い込んでいて。でも、自分の力で生きてる時岡さんを見てると、なんかすごくかっこよくて、素敵で、ああいうふうになりたいなぁって思うようになったんです。ああいう人は、これまでわたしの周りにはいなかったから」
「だろうね。まあ、苦労人っていうか、サバイバーだからね、東京の。地頭がよくて、自立しててそれなりに野心もあって、飼いならせないタイプ。東京にはああいう女、いっぱいいるよ」
「……難なく飼いならせそうだから、幸一郎さんわたしと結婚したんですよね?」
華子は鋭いところを突き、幸一郎は真顔で言葉を詰まらせる。
「わかってるんです。どうしてわたしみたいなのを幸一郎さんが選んだのか。いまは理由が、ちゃんとわかるんです。だけど、あのときはわからなかった。なんで自分が選ばれたのかわからなかったし、その理由を幸一郎さんも言わなかった。なんとなく雰囲気でごまかされて、どんどん進められていく結婚話に、ただ乗っかってた。案の定、結婚した途端にうまくいかなくなっちゃって」
「あれは酷かったな。俺も自分のことで精一杯で、華子とまともに話し合おうともしなかったし、ほんと、あれは酷かった」
華子はこくんとうなずく。
「ほんと、あんな酷い結婚、聞いたことねぇーよ」
幸一郎は肩を落として情けなそうに笑った。
「ですね。なにがいけなかったんだろう」
華子はひとりごちるように言った。
「俺はあれだな、結婚するだけして、あとは任せたよろしくって、仕事ばっかりして、逃げたことだな。でも、親父もそうだったし、それが普通なんだと思ってた」
「わたしは、現実から逃げるようにして結婚したことですかね。結婚したい、結婚しなきゃって、それしか考えてなかったから……」
「そりゃあうまくいくはずもないか」
幸一郎が他人事のように言うのがおかしくて、華子もけたけた笑った。
「いや笑いごとじゃなくて」と幸一郎。
それから華子はハッと、なにかを思い出したように膝を打ったのだった。
「時岡さんが言ってたのって、こういうことだったんですね」
「なにが?」