終章 一年後
新幹線に乗って東京からぐいぐい離れて行くと、不思議な解放感がある。勝手のわからない非日常の世界が広がっているようで、かすかな緊張とともに、自分をがんじがらめにしている些末な常識から自由になれる気がするのだ。
榛原華子は窓の外を眺め、流れる景色をいまは、好奇心いっぱいに眺めていた。窓際に座る相楽さんが、
「席替わるよ」
含み笑いで言うが、この旅の主役はあくまで彼女。華子は頑なに、
「いいのいいのっ、ゆっくり休んで!」
と相楽さんの体調を気づかった。
華子は相楽さんのマンションに住まわせてもらううち、彼女のマネージャーのような仕事をするようになっている。ドイツの部屋を引き払って日本に拠点を移した相楽さんは、事務所には入らずフリーのヴァイオリニストとして活動をはじめたが、次第に一人では切り回せなくなり、見かねた華子が身の回りの細かな事務仕事を引き受けるようになったのだった。スケジュール調整、運営側とのメールのやり取り、ギャラ交渉、請求書の発行、移動の手配、衣装の管理、さらにはSNSでの宣伝まで。外国歴の長い相楽さんは主張をはっきり口にするから人とぶつかることも多かったが、間に華子が入ればマイルドに中和され、ことはスムーズに進んだ。それに華子としても、適度に自分を活かせる仕事ができて、まさにWIN-WINな関係なのだ。いまでは相楽さんは、「華子がいないと仕事ができない」とまで言うようになっている。
この、『山の音楽会2017』と題されたクラシック音楽フェスへの相楽さんの出演をブッキングしたのも華子だった。普段は東京で、それこそセレブと括られるようなきらびやかな人が集まるパーティーで演奏することが多いが、ときたま地方都市で開催されるイベントから声がかかることもあり、東京以外の土地へ行く機会も増えてきた。
「駅前に美味しいカレーを出す喫茶店があるんだって」
スマホで現地の情報を調べまくる相楽さん。
「え~食べたい!」
横からカレーの写真を見た華子が、悶るように声をはりあげた。
仕事で招かれない限りは決して足を向けなかった場所が、この一年でずいぶん身近になった。相楽さんに同行するようになったことで華子の視野も、ぐっと広がったようだ。華子は自分がどれだけ狭い世界しか知らなかったのかを、各地へ行くたびに思い知らされた。いろんな言葉があって、いろんな町があって、いろんな食べ物がある。一つとして同じ土地はなく、そのどれもが華子にとってはめずらしいものだし、たとえさびれていたとしても、なんだか輝いて見てた。それは美紀の目に東京がことさらきらきらして見えたのと、同じ原理かもしれないと華子は思う。
在来線に乗り換えて一時間ほど。終点となる山裾の町へとさらに移動するが、その電車の古ぼけた感じも、窓から見える閑散となにもない景色も、二人にはいたく新鮮に映る。相楽さんは夢中でスマホを向けて写真を撮り、華子も仕事なのを忘れてきゃっきゃとはしゃいだ。乗客は、地元の人と思しきおばちゃんが一人と、鉄道ファンらしき男性二人組、それから登山リュックを背負った中年夫婦、同じく山登り目的らしい外国人観光客の姿も見える。たった二車両の可愛らしい電車、華子たちを合わせても十人に満たない空き具合だ。景色は田んぼだらけだったのがいつの間にか山深くなり、大きな岩が転がる川を臨んだと思ったら、ダムらしきものが見えてきて、さすがに相楽さんも不安になったのか、
「まだ先?」と華子にたずねた。
「うん。あとちょっと」
グーグルマップで確認しながら、華子はきびきびした調子で言う。
電車を降りた二人は、完全にバカンス気分で盛り上がっている。大きなキャリーバッグを転がしながら華子は、「あ! カレーの美味しい喫茶店ってあれじゃない?」
駅前にあるロッジ風の店を指差した。
ヴァイオリンのケースを大事そうに抱える相楽さんも、
「え、え、もう入っちゃう!?」
などと我を忘れて盛り上がる。
目の前にも後ろにも山がそびえ、カンカン照りで気温は高いが、木陰に吹く風は涼しく空気はあきらかに澄んでいて気持ちがいい。どこからともなく演奏が聴こえ、駅の周辺には音楽会の客らしき人も適度にいてほのかに活気づいているが、同時に心地よいゆるさがあった。
『山の音楽会2017』は今年で五回目を迎える。ある世界的演奏家が晩年の避暑地として滞在したゆかりから、メイン会場のホテルを中心にあちこちで大小の演奏会が開かれるイベントで、毎年国内外の演奏家が招かれた。普段はクラシックに縁のない地元の人も演奏家を歓迎してくれ、交流するのが楽しみの一つになっている。
「こういうところで弾けるなんて最高じゃん」
相楽さんは心からうれしそうだ。セレブが来るようなパーティーより、地方でのくだけた演奏会の方が性に合っているらしい。
送迎バスで十分ほど走り、ホテルにチェックインを済ませると、相楽さんはすぐにリハーサルに入った。
客席から見守っていた華子に、
「マネージャーさん……ですか?」
スタッフTシャツを着た、まだ大学生のような若い男が話しかけてくる。
「今日の夜、上のバーでボランティアの軽い打ち上げがあるんで、よかったら来てください!」
と、親睦会の案内を手渡してきた。
さわやかでカジュアルなそのお誘いに、
「ありがとうございます。もちろん伺います!」
華子も笑顔でこたえる。
スタッフの男性はうれしそうに、ペコリと頭を下げて去って行った。
こういう場にいるときの華子は、誰でもない。
出自も、属性も、離婚した過去も消え、誰でもない何者でもないただの人として見られる。その状態が心地よかった。
*
初対面の演奏家とカルテットを組み、無事に本番を終えた相楽さんは、
「あー緊張したー! けど楽しかった」
顔いっぱいに達成感をにじませる。
「チェロの子と仲良くなったから、東京戻ったらごはん食べようって話してたの。また一緒にやろうって」
と言って、彼女の名刺を華子に渡した。こうやって演奏家同士の横のつながりもできるため、ギャラに関係なく音楽会の仕事は引き受けるようにしているのだ。
「着替えてから打ち上げに顔出すわ。先行ってて」
相楽さんが部屋に戻るのを見送り、華子はホテルの最上階にあるバーへ向かおうとエレベーターのボタンを押した。最上階といってもたった四階だが、この辺りではいちばん立派なホテルである。エレベーターのドアが開くと男の人が一人乗っていたので、華子はうつむき加減に会釈をして乗り込んだ。すでに四階のボタンが押されている。
「華子?」
聞き覚えのある声にはっとして華子は顔を上げた。
幸一郎だった。