お色直しから戻った新郎新婦が、テーブルを回ってキャンドルサービスをはじめるお決まりの進行。照明がぐっと落とされ、ひときわ強いスポットライトを浴びながら、ライラック色のドレスを纏った華子は幸一郎の持つトーチに楚々と手を添えて、ぎこちなく微笑んでいる。
入り口ドアを開けてすぐの真正面は、榛原家の親族席だった。モーニングを着た父の宗郎が、拍手で迎えてくれた。母京子と長姉の香津子は黒留袖を、次姉の麻友子は背中の大きく開いた黒のカクテルドレス姿で、しきりに写真を撮っている。幸一郎と華子を引き合わせてくれた香津子の夫、真に向かって幸一郎が握手を求める一幕もあるが、これは演出で、司会者がその旨をマイク越しに解説して、招待客から喝采を浴びていた。香津子と真に挟まれて座る甥の晃太は、慶應義塾中等部の基準服を着て、無表情にスマホで動画を撮っている。そして祖母は、着物がもう辛いのか、ホワイトゴールドのノーカラージャケットという出で立ちで、目尻を白いハンカチで何度も押さえていた。
それもそのはず、お気に入りの孫だった華子が素晴らしい相手と結ばれたのだから、祖母にしてみればこんなにうれしいことはないのである。祖母は幸一郎の立派な体軀とスマートな顔立ちと、知性と、家柄と、肩書きと、いかにも清廉潔白な雰囲気に、乙女のようにときめいてしまったようだ。おっとりした華子が悪い男に騙されず、完璧な結婚相手とめぐり合って、こんなに豪華な式を挙げてくれて胸がいっぱい。そんな祖母の様子を見て、華子自身の瞳もこの日はじめて潤んだ。
詰めれば十人は座れる大きな円卓、真ん中にちょこんと置かれたキャンドルの、わずか数センチの芯へ向かって、二人は大きく腕を伸ばす。始終スマホのシャッター音が鳴り、おめでとうおめでとうと声をかけられるが、次から次にテーブルを回らなくてはいけないので、どうしても素っ気ない対応になってしまうのが華子は心苦しい。それもそのはず、ほんのわずかに体勢を変えるだけでも、ビスチェで締め上げられた肋骨がぎゅっと軋むので、きまりきった動きをするだけで精一杯なのである。頰が攣りそうなほど笑顔をキープしているが、体の方は満身創痍といってもいいほどで、介助なしにまっすぐ歩くのさえ困難なのだった。ウェディングドレスを試着したときから、こんな拘束衣のような格好でちゃんと歩けるか不安だったけれど、立っていることさえままならず、よろけそうになるのをこらえるだけで一仕事だった。ふんわり広がるスカートは、軽やかな見た目に反して布地がずっしり重く、パニエで膨らませた分、スカートの中はすぅすぅして心許ない。自分の足元がすっかり覆われているので、一歩踏み出すたび、まるで目を閉じて歩くような不安感があった。
ところが幸一郎はそれが全然わかっていない。ドレスを着て歩くのが、いかに辛く苦しく、危険で、誰かの助けがいることかというのを。さっきも控室で着替えを済ませると、喫煙所で休憩している招待客を見つけるや、挨拶しに自分だけすたすた行ってしまって、華子のことは置き去りだった。見かねて「あらあら、ここにつかまってくださいね」と支えてくれた介添えの人の優しさが恋しい。幸一郎という人は決して人前で冷たい態度はとらないが、ナチュラルに薄情なところがあって、ふとした瞬間にそれが漏れ出てしまうのだ。
そういう面は、結婚準備に追われていたこの数ヶ月でやっと見えてきたところだった。忙しいのはわかる。弁護士の仕事がどのようなものなのか幸一郎はほとんど話さないが、六月の株主総会が終わるまでは家にも帰れず泊まり込みの日もあったようだ。だから結婚式のことが任せきりになるのは仕方ないけれど、気になるのは結婚式に対する幸一郎の、あまりにも他人事な態度だった。華子にとっては一世一代の、人生を丸ごと変えてしまうような大きな出来事なのに、幸一郎にとってそれはただ単に一日の〝予定〟でしかない。四度あったウェディングプランナーとの打ち合わせのうち、幸一郎が姿を見せたのは最後の衣装合わせの日だけで、お花やお料理やテーブルウェアを選ぶ試食会やフェアには、華子の母、京子がつき合ってくれた。
華子もドレスを選ぶときは楽しかった。純白のシルク生地やチュールを撫でるだけで夢心地になった。ものによって金額も変わってくるが、「華子の好きなのにしなよ」と言ってもらえただけで笑みがこぼれた。お姫様願望があったわけではないが、それでも肩と背中を大きく出したデザインには胸が高鳴った。ただ、華やかなイメージばかりが先行して、ドレスがこれほどまでに体の自由を奪うものだとは、想像したこともなかったのだ。ウエストを締め上げたドレスが上流階級の女性の日常着だった時代、彼女たちをコルセットから解放したのはココ・シャネルだったという逸話を華子はどこかで聞いたことがあった。たしかにこんな格好をしていては、見た目には美しくともなにもできない。それは当時の女性たちの——そして想像するに結婚後の自分の——従属的な立場を大いに示唆するものであった。