新婦友人の正式な招待客として招かれた美紀は、黒いサテンのワンピースに何連にもなったコットンパールのネックレスで首元を飾っている。美紀も双眼鏡をのぞき、純白のウェディングドレス姿で静かに目を伏せている華子と、その横でいつもの鷹揚な薄笑いを浮かべる幸一郎とを交互に見遣ると、
「ほんとだ緊張してる。そりゃ緊張するよね。こんな大きな会場で、目の前には偉そうなおじさんばっかり。ロータリークラブの集まりみたいになってるじゃん、あそこ」
と気の毒そうにつぶやいた。それから、双眼鏡を会場のシャンデリアや壁に向けた。
美紀はホテルオークラに来ること自体はじめてだった。あと半月で取り壊されることを思うと、これが最初で最後となる。オークラのカーペットは目が詰まってふわりとした踏み心地なので、ヒールに慣れた美紀ですら歩くのには少々難儀したほどだった。
虎ノ門で電車を降り、どうにか本館入り口にたどり着いたとき、美紀はうわぁーっと心の中で感嘆を漏らしながら、ホテルのあちこちをめずらしげに眺めた。外観にも内観にも、日本の美というものをこれでもかと詰め込んでいるのに、まるでわざとらしくない。取ってつけたように「和」を売りにしているわけではなく、控え目で、そして空気が澄んでいた。外資系のラグジュアリーホテルと比べるとスケールこそ小さいが、昔から選ばれた人だけがここを待ち合わせに使っているような、そんな雰囲気だった。
開宴前にとなりの女性に挨拶すると、彼女は青山でネイルサロンを経営していますと自己紹介して、名刺とともにショップカードをくれた。
「榛原さんの今日のネイルも、あたしがしたの~」
と、西田さんは誇らしげだった。
テーブルに双眼鏡が置かれているのを見つけたときは、コンサートじゃあるまいしと笑ったが、たしかにこれがなければ主役の表情ひとつうかがい知ることができない。祝辞が終わると、ケーキ入刀。司会者に「シャッターチャンスです!」と急かされ、西田さんも相楽さんもスマホを持って席を立つが、美紀は「あたしはやめとくわ」と遠慮して、テーブルに残った。司会も音楽も、盛り上げに盛り上げ、「ケーキ入刀!」のコールとともに、フラッシュがちかちか光る。そして切り分けたケーキを新郎新婦が互いに食べさせ合うファーストバイトの儀式が続く。
「新郎から新婦へのあーんは、一生食べることに困らせないという約束、新婦から新郎へのあーんは、一生美味しいものを作るからねというメッセージなのだと言われています。それではみなさん、ご一緒に! あぁぁぁぁーん」
白々しさにあくびが出そうになるのをこらえつつ、美紀はぱちぱちと拍手を送った。
ケーキ入刀の様子を写真に収めに高砂に詰めかけていた人たちがわらわらテーブルに戻ると、ようやく食事の時間となった。シャンパンで喉をうるおし、オードブルの盛り合わせに手を付ける。フォアグラのテリーヌをつまみ、小さなカップに入ったヴィシソワーズを一口で飲み干し、キャビアとトビコで彩りよく盛りつけられた真鯛のタルタルを舌にのせると、美紀はんーと目を閉じて、相楽さんに「結婚式で出された料理が本当に美味しいなんてはじめてだわ」と耳打ちした。
「ははっ。いままでどんな料理出されてたんですか」
相楽さんが首をのけぞらせて笑う。相楽さんは毎年この時期はドイツに滞在しているが、華子の披露宴のためにわざわざ帰国したという話だった。
牛フィレ肉のポワレをナイフとフォークで切りながら、美紀は感心したように言う。
「だってあたし、こんなレベルの結婚式来たのはじめてだし。政治家のスピーチ、巧すぎてビックリした。やっぱ口が巧いっていうのが大事なんだね、ああいう仕事は」
「あたしは何度か大きい結婚式来てますけど、SPが立ってるようなのははじめてです。大臣クラス呼べるって、青木幸一郎の家、やっぱすごいんですね」と相楽さん。
「ね。ボンボンなのは知ってたけど、どのくらいのボンボンかは聞いたことなかったっていうか、そんなこといちいち人に言わないじゃん。だから全然わかってなかったわ、青木家の格」
「それってちょっと後悔してるってことですか?」
からかうような目で相楽さんが言うので、美紀はコバエでも払うように手を振って、全力で否定した。
「やめてよ、まさか。逆、逆。うちの家族がここにいるのとか、想像できないもん」
そして美紀は、こんなところに家族を呼びたくない、それどころか自分の家族にはこんな思い、味わわせたくない、とすら思っていた。
東京からはるか遠く離れた場所で、小さな田舎町しか知らずに生きている自分の家族は、フランス料理を上手に食べられるわけもなく、初対面の人と当たり障りのない上品な会話ができるわけでもなく、もちろん洗練された振る舞いもできないし、財界人や政治家がガハハと幅を利かせる場に萎縮しきって居たたまれなくなり、いきおい傷ついてしまうだろう。とにかく世界が違いすぎる。美紀はこれでも幾ばくかは都会のはったりに慣れているつもりだが、それでも最高級ホテルの大宴会場で催される、壮大な茶番のごとき披露宴には圧倒されっぱなしで、新婦友人という〝その他大勢〟であるにもかかわらず、ずっと、かすかに緊張しているのだった。そして周囲を見回して思った。どうやらここにいる全員が、同じ世界の住人らしい。この人たちは何世代も前から東京で足場を築き、成功を収めた人たちの〝末裔〟なのだ。
美紀は席次表に載っている有名政治家の名前をスマホでこっそりググり、ウィキペディアをななめ読みするなり、あまりの血の濃さに思わず驚嘆する。あの政治家とあの政治家、遠い親戚じゃん。先祖はあの幕末志士じゃん。知ってた!? 美紀は興奮気味に相楽さんにスマホを見せる。
「ああ、知ってる知ってる、有名ですよ」
こちら側の世界の端くれに生まれ育った相楽さんは、そんなの常識じゃないですかという態度である。ここは歴史に裏打ちされたエスタブリッシュメントで構成されているんですよ、当たり前のように言う相楽さんを見て、美紀は思った。ああ、日本は格差社会なんじゃなくて、昔からずっと変わらず、階級社会だったんだ。つまり歴史の教科書に出てくるような日本を動かした人物の子孫は、いまも同じ場所に集積して、そこを我が物顔で牛耳っているのだ。