試写の段階から高い評価が続出し、公開後は熱狂的な反応を巻き起こしつつあるアニメーション作品が、片渕須直監督『この世界の片隅に』である。映画そのものの質の高さに加えて、クラウドファンディングによる製作資金の一部調達、能年玲奈(のん)の声優起用など話題性もあり、都内の劇場は平日も満席が連続。今後、上映館は拡大してく予定だという。
先の大戦を題材にしつつ、ステレオタイプな反戦の訴えかけに陥ることなく、市井の人びとの日常生活を緻密に描いた本作は、全編が豊かな驚きに満ちている。過去の地図や資料、聞き取りを元に、当時の広島市、呉市を完璧に再現した劇中の街並みにも注目したい。今後、終戦記念日には毎年テレビ放映してほしいと切望したくなる優れたフィルムだ。昭和8年12月の広島市から始まる物語は、主人公の成長、太平洋戦争への突入、結婚と呉市への転居といったエピソードを描きつつ、昭和20年8月の原爆投下へ向かって進んでいく。
主人公の浦野すず(結婚後の姓は北條)は、おっとりとした口調や従順な性格が特徴である。趣味は絵を描くこと。まるで自己主張がなく、厳しい兄や義姉にどやしつけられても、どこ吹く風といった表情で佇んでいる。瀬戸内の海を描いた彼女が、白い波をうさぎに見立てて耳としっぽをつけくわえる場面は、主人公の無垢な視点を示す印象的なモチーフだ。
なぜ彼女はこのように美しい絵が描けるのか。人はみな、年齢を重ねると共にイノセンスを失っていくほかない。しかし彼女は何かの拍子で、そのたぐいまれなる無垢を保ち続けていられるのだ。すずは世界をつぶさに観察する。その純粋さゆえに、時には座敷わらしやバケモノとすら言葉を交わせるほどだ。手帳を取り出し、鉛筆を動かすとき、彼女の見た世界はいきいきと再現される。草花や動物を、呉の段々畑から眺めた風景を、彼女は自由にスケッチしていく。すずの描く絵は、どれほど強力な為政者にも決して蹂躙しえない聖域のようである。
劇中、ほぼ面識のない男性から求婚された主人公は、この唐突な縁談をすんなり承諾し、相手の名字すら知らないまま呉市へ嫁いでいくこととなる。物語の中心人物にしては、あまりに主体性に欠けていないかと気を揉むが、彼女はあいかわらずのんびりした態度で、呉市での生活を始める。新しい環境にも慣れ始めた主人公だが、開戦と共に暮らしは厳しくなる。配給される食料も日に日に減っていき、しまいには道に生えている雑草を煮て食べるほかなくなってしまう。
かかる困窮にもかかわらず、工夫を凝らした料理場面は実に楽しく、胸躍るシーンでもある。ここには生活がある。米を研ぎ、洗濯をする。裁縫をし、防空壕を作り、農作業をする。昭和19年に、人びとはこれほど手を動かしながら生活していたのだと再確認させられる描写の連続である。
生活を営むことの厳しさ、美しさ、優雅さ。空襲で爆弾が落とされたからといって、食事の準備をしないわけにはいかない。人びとの暮らしはしぶとく続いていく。やわらかいタッチのアニメーションで描かれる生活の重みに、しばし唖然としてしまった。