日本でも陰りだす男色
ヨーロッパと、その支配地域で、男色家が迫害を受けていた近世。
一方の日本はというと、武士道における男色の心得を説いた『葉隠』が1716年に著されたり、野郎歌舞伎や陰間茶屋が大繁盛だったりと、鎖国のおかげか、お国柄か、通常運転でした。
しかし、世界の潮流にまったく無縁というわけでもなく、はやくも18世紀には敏感な学者たちの幾人かが、ヨーロッパの男色に不寛容な性風俗を紹介しています。
例えば、無神論と無階級社会を唱えた、秋田藩の医師で思想家の安藤昌益は、同性愛をタブー視するオランダを好意的にとらえる発言を残しました。
また、あの平賀源内の弟子で、蘭学者かつ戯作家だった森島中良は、その著作『紅毛雑話』のなかで、オランダでは男色が人倫に背く罪であり、それを犯した人は火あぶり、犯された少年は海に沈められたと記しています。
こうした記述は、啓蒙というより海外の風俗を知識として紹介する意味合いの方が強かったようですが、どうしたことか、江戸中期から、日本でも徐々に男色は下火になっていきます。
江戸研究の先駆者、三田村鳶魚氏は、この傾向を端的にこう表現しました。
「同性愛は正徳・享保の際に武門・武士から離れ、更に寛政(1789~1801)に世間から懸隔し、いよいよ天保(1830~1844)になって絶滅した」
絶滅というのは言い過ぎで、薩摩・土佐・会津など戦国の気風残した尚武の土地では、幕末どころか昭和初期まで盛んでしたし、歌舞伎や陰間茶屋での売色も繁盛していました。
しかし、史料をあたっていくと、戦国時代や江戸時代初期のような、極彩色の錦絵を見るような底抜けの明るさがなくなっていくのですね。どうもうつむいた、湿ったものになっていく。
その理由を探っていくと、この頃、容姿や服装、何より男のあり方についての一大転換が、起きていたようなのです。
鬚(ひげ)と前髪
「天下で美しさや色気というものは、皆男の方が女より優っております。その証拠に、鳥なら鳳凰孔雀から鶏雉に至るまで、オスのほうが艶やかできれいです。犬や馬だってそうです。だから、男がもし子を生育できるようになったら、女なんかさっさと廃してしまうべきなんです」
こんな名言(迷言?)を残したのは、中国明代の男色家、兪大夫(ゆだゆう)でした。女性を廃す云々のくだりは上奏した皇帝からもあきれられていますが、確かに動物の場合、オスのライオンはたてがみを持っているし、オスの鹿は角を、オスの孔雀はあの羽根をといった風に、メスよりオスの方が派手で目立つ外見をしていることは多いようです。
これは人間も同じで、歴史を概観すると、人間のオスは、昔から着飾り、化粧し、女性より派手な格好をしてきました。
日本でも、戦国時代の武士達は立派な鬚をはやし、お歯黒をつけ、兜の角立てや、陣羽織、旗指物、ありとあらゆる手段を使って、自分の存在を誇示しようとしました。織田信長は南蛮由来のビロードのマントをまとい、伊達政宗は部下に、黒鎧に一間半の大太刀を金の鎖で肩から下げさせ、伊達者の名をほしいままにしました。
美人という言葉がもともと「美しい女性」ではなく、「美しい男」を指す言葉だったことが示すように、この頃は「美」という言葉は、何より男に課せられるものだったのです。
しかし、江戸時代も半ばを過ぎると、武士に求められる属性が変わってきます。必要なのは、戦場の勇士より畳の上での遊泳のうまいお役人。容姿も服装も意表をつくものではなく、TPOをわきまえた型にはまったものが求められるようになりました。こうして男の髭はそられ、衣装も目立たぬ地味なものになっていきました。
男と少年、どちらが太陽でどちらが月だったかは分かりませんが、大人の男の格好がドブネズミのようになっていくにつれ、少年の輝きも失せていきます。
「元禄期には23歳くらいで前髪を剃って元服するのが普通で、児(ちご)小姓などになると29歳まで前髪をおろさなかったものだが、今でははやく扶持をもらおうという下心か、14歳くらいで早くも前髪をそるようになってしまった」
そう、薩摩の白尾斎蔵が「倭文麻環(しずのおだまき)で証言したように、かつては20歳まで前髪をたて美々しくしていた少年たちが、早々に前髪をそり足早に大人の世界に入るようになりました。
また、早婚化の風潮も見逃せません。戦国~江戸にかけては、修行・鍛錬のため、30~40歳になっても結婚せず、男色をもっぱらにするのが男らしいと言われていました。しかし、江戸時代中期ごろからは二十代にはさっさと結婚し所帯を持つのが普通になりました。
逆に女性の装束は時代が進むにつれ、どんどん派手に豪華になっていきます。
男の衣装の地味化、それに反比例する女性の衣装の豪華さ、そして早婚化。
こうした現象は決して日本のみではなく、全世界で共通して見られたことでした。『武士道のエロス』のなかで、氏家幹人氏は、人間行動学者のアイブル・アイベスフェルトの言葉を紹介しています。
「われわれはすべての文明において、男の灰色の過程を体験する」
鎖国中でしたが、日本でもささやかな技術発展があり、また大阪や江戸では資本主義の萌芽も芽生えだしていました。そのため、男から女へ、美という属性が流出していく現象が、ヨーロッパなどの産業先進国と比べれば緩やかながらも起きていたのでしょう。
そして、1854年、ペリーが来航。
様々な科学技術、民主主義などの新しい思想とともに、同性愛への不寛容も流入し、美やエロス的な価値が男からも少年からも奪われていく傾向は、加速していくのです。