”Les sanglots longs
Des violons
De l’automne….”
1944年、6月。
イギリスのラジオが、初夏のフランスへ、とある詩の一節を届けていた。
パリを生きた詩人、ヴェルレーヌによる「秋の歌」。6月には似合わないような寂しい秋の詩を、それでも当時の人々は、次の季節をのぞむ詩として聞いたんだろう。
ヴェルレーヌの詩は、暗号だったのだ。
ナチスドイツに敗戦し、自由をなくしたフランスが、またその足で立てるようにと、助けが来る日を知らせるための。
“全レジスタンスよ、連合軍の上陸近し”
ノルマンディ上陸作戦を前に、一台のトラックが北へ走っていた。
「ちょっと、財務省の車を拝借してな」
運転していたレジスタンスのメンバーは……ルネおじいちゃんは、そう言うと私たちに目配せをする。
ナチスドイツ支配下でユダヤ人に食糧を届けるより、もっとずっと危険なミッション。ルネおじいちゃんがレジスタンスとして過ごした若き日々は、“ユダヤ人を助けた優しいおじいちゃん”なんて平和なイメージにおさまらない命がけのものだったんだろう。
そんな日々を乗り越えて、90歳を超えた今も、ルネおじいちゃんは愛車のメルセデス・ベンツを自ら運転して朝のマルシェに向かう。マニュアル車のシフトレバーを握り、上等なウサギ肉やポワロー葱をルネおばあちゃんに持ち帰る、その、しみだらけの手。おじいちゃんのその手は、第二次世界大戦でいったい何をつかんできたんだろう。何をなくしてきたんだろう。
ルネおじいちゃんの手が、ルネおばあちゃんの肩を離れた。ルネおばあちゃんは、自分の肩に残る夫のぬくもりに視線を落とす。その様子に気付いているのかどうか、ルネおじいちゃんはすっと向きを変え、自分の席に腰かけた。窓からの白い光に、ルネおじいちゃんの横顔のシルエットが浮かぶ。
なんだか、その横顔が、まるで美術館の彫刻みたいに冷たく無機質に思えた。鼻が高く、きりっとした眉骨の横顔に、日本語で“おじいちゃん”と言って想像されるような親近感はない。
「俺は、北へ——ノルマンディへ向かって走っていた。秘密を荷台に隠してな」
ルネおじいちゃんは私たちのほうへ向きなおる。その視線は、ためらいなく、まっすぐに私たちを見据えている。
「見つかれば命はなかっただろう」
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