「止まれ(Arrêt)!」
1944年、パリ7区バック通り。
フランスが自由を奪われていたころ——。
ルネ青年は自転車を駆って、ナチスドイツ兵の怒声を背中で聞いた。停止命令を聞いてなお、ペダルを蹴る足に力を込める。23歳、敗戦国フランスの元陸軍中尉。ナチスの命令に背くことが、何を意味するのか身をもって知っていた。それでも、止まらない。
「止まれと言っている!(J’ai dit “arrêt”!!)」
銃声。
悲鳴。
それは、警告射撃ではなかった。自分を狙った銃弾が、ビルの壁に穴を開けたことをルネ青年は感じとった。振り返りもしないまま。
撃たれるわけにはいかなかった。
止まるわけにもいかなかった。
なぜなら、彼には——
「アラン・ポエール」
その名を呼ぶと、ルネおじいちゃんはパイプを口にし、ゆったりと煙を吸った。1944年のあの日、ナチスドイツの銃弾を自転車で振り切った青年は、「ルネおじいちゃん」と呼ばれるようになった今も朗々としたバリトンで話す。
「俺は見たんだ。奴の秘密を」
秘密、という言葉を潜ませ、ルネおじいちゃんはふわりと煙を吐く。専用の飾り箱に入った、高級品の煙草の葉。そのまろやかな香りの奥に、品のいいオードトワレが香る。
なんだか、映画を観ているような気持ちになる。目の前でパイプをくゆらせているルネおじいちゃんが、かつて、ナチスに抗う革命組織のメンバーだったなんて。日本人である自分のおじいちゃんが、ワイングラスやオードトワレやパイプにマッチで火をつける仕草から無縁だったことを考えても、私にはルネおじいちゃんが、異国の物語の主人公みたいに見えてしまうのだ。
「アラン・ポエール! 元大統領の?」
隣で私の妻が驚く。
「Oui(ああ)」