——真鍋さんは、大学卒業後、メーカーに就職していますね。
大学では、数学とプログラミングをやっていました。それと、バンドやDJなどの音楽活動もやっていて。CDも出していて、5000枚くらい売れたんです。
数学も好きだったし、音楽も好きだったけど、生業としてはどちらかを選ばないといけない。そう考えたときに、プログラミングのほうが仕事を見つけるのが簡単だから、ソフトウェアのエンジニアになろうと思ったんです。エンジニアになるなら、教育がちゃんとしているところがいいな、という普通のコンサバな考えで、誰もが知っている大手のメーカーでのシステム設計開発の職を選びました。
——意外と現実的ですね。そこではどんな仕事を?
マルチメディア開発部というところで、システムの設計開発をしていました。たとえば、高速道路のトンネルのなかには防災のためにカメラがたくさん設置されていて、事故が起きたときはその映像を転送しなければいけない。そのためのデータ通信やデバイス制御のシステムを開発していました。あとは、自動でMDを再生して緊急放送を流すシステム。だから、当時からメディアを操作するようなことをやっていたけれど、エンタメやアートのためではなくて、防災のための映像や音声の制御システムというのをやっていたんです。
——現在の仕事とつながる部分もあるんですね。でも、そのメーカーを辞めてしまうんですよね。
入社1年で辞めて、ウェブのベンチャー会社に移ったんです。2001年くらいで、ちょうどウェブバブルだったんですよね。簡単なウェブサイトでも作って1億円で受注できてしまうような時代で。
当時は、「リアルとウェブを繋げる」というのが新しかったんです。だから、クラブとウェブを融合するコンテンツを作ろうとして、クラブで見つけたかわいい子たちの写真に、ブラウザから点数をつけられるようにするとか、そういう下世話なことをやったりもしていました(笑)。
——それってビジネスになっていたのでしょうか?
ほかにも会社ではテレビとウェブを融合するとか、いろいろやっていたのですが、マネタイズは難しかったみたいです。僕がいたのは、システムではなくコンテンツの会社だったんですが、今のようにウェブ広告のビジネスモデルがまだ成熟していなかった時代なので、当時はコンテンツをお金にしようと思うと、有料会員をつかまえるしかなかった。やっぱりなかなか思うようにいかず、だんだん業績が悪くなり、会社は倒産してしまいました。23歳のときでした。
——23歳で、勤めていた会社が倒産。結構へこみそうです。
でも、こういうことってあるんだなと思って(笑)。会社の業績が悪くなっていって、どんどんみんなクビを切られて……。
そのあと、しばらくニューヨークにいたんです。そこで、のちに一緒にライゾマティクスを立ち上げることになる齋藤精一と、広告の仕事を少し一緒にやっていました。彼は広告代理店で映像制作やデザインの仕事をやっていて、僕は音と数学、プログラミングをやっていたので、それを組み合わせて新しい表現ができたらいいね、という話をしていました。
でも、そのとき十分なスキルも知識もなかったので、学校に行っていろいろ勉強してみようと思い、IAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)に入ったんです。その2年間は、学校でひたすら作品制作をしていましたね。