「また降ってきたねぇ。今日は一日ダメだなこりゃ」
関口が、窓のしずくを指でスーッとふきながら言った。
「雨の日は休みにしてほしいなぁ」とボクは真剣に訴えた。
「それは間違いないね」
関口との18年と8ヶ月はこんなどうでもいい話をしながら、不規則な日常をやり過ごす日々だった。
ボクらの仕事はテレビの美術制作という「ん? 何それ」と言われがちなものだ。テレビ番組のテロップや小道具、CGなどを日夜作る仕事。正月のたびに「あんたそんな地に足の着いてない仕事して」と母親に心配され、法事では親戚に「芸能人、会ったことある?」とだけ言われる仕事だった。
「昨日さ、武蔵小杉で人身事故があってさ」と関口が言った。
「なんでまた、昨日みたいな快晴の日に死ぬかね」ボクは曇った窓ガラスを手で拭って、外を小走りで走る、髪の長いOLをチェックしながらつぶやいた。
「いや、清々しい朝だったから死のうって思ったんじゃないかな。42歳のサラリーマンって出てたよ」
「42歳、同い年か」
「昨日、死んだ42歳もいれば、昨日、仕事を辞めた42歳もいるわけだ」
関口はそう言うと自分で笑った。
「おまえさぁ」
「あ。七瀬も俺らと初めて会った時、42歳だったって知ってた?」
関口がはぐらかした。
「これだけは言っとく、人生の本当に大切な選択の時、俺たちに自由はないんだよ」
「なんだ、それ」
「七瀬の言葉だよ。つまりは、勝手にしやがれってさ」関口は嘘くさい笑顔でこちらを向いた。
あの日も雨だった。
仕事はいつも、昼過ぎからだったが、終わる時間は相手次第でまったく分からないという日々が1年以上続いていた。早朝のニュース番組をレギュラーでもらっていたので、明け方直前まで基本的には待機という約束だった。
待機と言われたら酒でも飲んで待つのが礼儀という、変な教えがこの業界にはあった。ボクと関口はルノアールに通うように飲み屋に通った。だいたい焼酎割を飲みながら待機していた。
その日。明け方の新宿ゴールデン街でボクと関口は会社からの連絡を待ちながら眠ってしまっていた。入口のガラス戸に雨が打ちつけられて、激しい音を鳴らしている。店の奥に無理矢理作った座敷があって、そこでボクらは眠りこけていた。
こじんまりとした店内に味噌汁のにおいが香った。やかんが気持ちのいい音を鳴らし、ボクは薄らと目を開く。
「いま、ほうじ茶煮出してるから」
割烹着を着た『BARレイニー』の名物ママ・七瀬が、せわしなくボクらの朝食を作ってくれていた。味噌汁にとうふと青ネギを切って入れているのが見えた。ご飯もちょうど炊けたようだ。米の甘い香りが鼻をくすぐった。
カウンターには、いつのまにか関口が座っていた。
店内の気温は、暑くもなく、それでいて寒くもなかった。仕事が心配になったけど、もし急ぎがあったら責任感の強い関口は一人でも飛んで戻っているはずなので、大丈夫なんだと悟った。ボクはその人生の余白のような時間に浸って、また眠りに落ちそうになりながら、薄目でふたりをながめていた。
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