「ちょっと雨、おさまったかもなぁ」
関口が車の窓を少しだけ開けて、外に手をかざした。アシスタントも外を見やると 、ワイパーを止めた。
中目黒駅は、朝のラッシュが始まろうとしている。若いサラリーマンが畳んだ傘を持って走っているのが見えた。
立ち食いそば屋の自販機もサラリーマンが数人並び始めていた。忙しそうに従業員が仕事をこなしている。
「スーとはなんかあったの?」関口は黒いイカツイ革靴を脱いであぐらをかくと、ボクの顔を覗き込んだ。
「何も」
「何も?」
「何も」ボクはできるだけ真面目な表情を心掛けた。
「俺には1回だけやらせてくれたけどなぁ」そういうと関口はゲラゲラ笑った。
「そっか」別に動揺はなかった。文字通り、本当に、スーにとっては「1回やらせてあげただけ」なのはわかっていたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。嫉妬するようなことでもない。スーの人となりを思い返せばそんなことはわかった。そう思いつつ、ニヤケ顔の関口の後頭部を引っ叩いた。
初めて会ったあの下品な夜。ボクは彼女に〝何も〟できなかった。
彼女は『REQUIEM』の名刺にアドレスを書いて、すぐに鉄の扉をあけ、またあの喧騒の世界に戻っていった。
ボクは夢(悪夢だけど)のような時間を振り返りながら東京タワーに向かってあの夜、ホテホテと歩いた。あのあと泥酔した関口が、VIPルームの革張りのソファーで大の字で眠ってしまい、六本木の街に放り出されたこと。女性デザイナーがあの雑誌編集長にうまいこと口説かれ、お持ち帰りされたこともあとから知った。
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