ラジオからDJが、英語なまりの低いバリトンボイスで恋を語っている。
「恋愛とは、から騒ぎだ。つまり中心には何もない。どんなにお手軽な恋愛だろうが、どんなに運命的な恋愛だろうが、それは、から騒ぎだ。つまり答えはひとつ〝勝手にしやがれ〟。そしてすべての音楽は、そのBGMとして寄り添っていくでしょう。曲はUAで『数え足りない夜の足音』」
カーラジオから流れ始めた歌声が車内に充満して、窓から見える風景を少しだけ変えた。
アシスタントが運転するワゴン車の後部座席で、ボクは27時間ぶりの睡眠をとろうと横になってウトウトしていた。とにかく今週、来週の休みは合計しても9時間もない。
この車で煙草は吸うなとあれほど言っておいたのに、アシスタントはまた匂いの痕跡を座席シートにびっしりとこびりつけていた。くっせえ。その時、車は急なカーブをきった。
うずくまっていたボクの三半規管が明らかにエラーを起こす。
「あと少しで着きます」アシスタントのぶっ切らぼうな声が聞こえた。
「くせえよ」ボクの文句に返答はなかった。
ほどなくワゴン車は、東横線中目黒駅の高架下の脇に停まった。
立ち食いそば屋の前でカチカチカチとハザードを灯す。
「もう、来てらっしゃいますね」とアシスタントは後部座席のドアをスライドさせた。
ボクは横になったまま、外の空気に身を縮めた。3月の中旬だっていうのに風は冷たくて、春の兆しなんてまったくなかった。
「おぉ、忙しいのに悪いねぇ」
ドアが開くなり金髪坊主の関口が声をかけてきて、ワゴン車に乗り込んできた。パジャマみたいなTシャツにジャージ姿のボクは、体を起こして彼のスペースを空ける。
「おつかれさまです!」アシスタントがボクには絶対にかけないテンションで関口に挨拶をした。ここまでわかりやすいと、どうでもよくなる。
180cmある長身に細身の黒のスーツに黒のシャツという出で立ちは、昨日まで昼間の仕事をしていた人間とは思えなかった。
「おつかれ、それで関口、いつ東京離れるの?」ボクは眠気を押し殺して聞いた。
「最短で今月末」そう言いながら関口は細い煙草に火をつけた。
「禁煙、ここ」ボクはその煙草を取り上げ、飲みかけだった缶コーヒーの中に投げ入れた。
「おまえもな」続けざまに、サイドミラーごしにアシスタントをたしなめる。
関口は、18年と8ヶ月一緒に働いた同僚だった。唯一の同期であり戦友だった。18年と8ヶ月前に社長含めて3人だった会社はこの期間に27名に増えていた。
時計は午前5時10分をさしている。次の打合せがほぼ1時間30分後。ボクはもう一度、火をつけようとしてる関口の煙草を取り上げて、出会った頃の話をしはじめた。
薄暗い車内で18年と8ヶ月の思い出を90分で話さなければならなかった。
霧雨が降っている。アシスタントがワイパーを起動させた。めずらしく気を利かせたのか、ラジオのボリュームを少しあげた。
雨が段々と強くなってきていた。ワイパーが活躍している。中目黒の駅で雨が上がるのを待ってる女性が、手をかざしている。
関口は、これが最後とは思えないぐらい下らないゴシップを語り始めた。座席が揺れるほど二人して笑った。アシスタントは呆れ顔で、たまにチラッとサイドミラーで目が合ったが、後はだいたいスマホをいじっていた。
「スー、きれいだったな」
関口は、クラブ『REQUIEM』のバーテンダーの名前を出して、ボクを小突いた。
「あいつ、何してるかな」とボクは、ゴールデン街の『BAR レイニー』のオーナーだった七瀬の名前を出した。
「あ、あとアイツ、初日に昼メシ買いに行かせたらそのまま金持っていなくなった伊藤」
「伊藤タダシ! いた! 平成の世の中に向いてねーよなぁ」
ふたりで手をたたいて爆笑した。
「それに、真田だろ」ボクのその一言に関口の笑い声が消えた。
車からすぐの立ち食いそば屋に入っていくサラリーマンを、ふたりして眺めていた。
ボクは当たりさわりのない言葉を口にした。「いろいろあったね」
「いろいろあるだろ、そりゃ」関口が口を開く。
ワイパーは、もう雨を処理できなくなっていた。打ちつける雨と行き交う車のヘッドライトで、外の風景はにじんで見えた。
ラジオから聴こえるDJの声とカチカチカチという規則正しいハザードの音だけが車内を満たしていた。
DJがまた英語なまりの低いバリトンボイスで、人の出会いの不思議について語っている。
「永田町の国会図書館には日本の出版物がすべて、保管されています。文芸誌から漫画、ポルノ雑誌まですべてです。私たちがあと50年生きるとして、1日1冊ずつ読んだとしても読みきれぬ量の出版物がすでに保管されているのです。一方、世界の人口は60億を超えて今日も増え続けています。私たちがあと50年生きるとして、人類ひとりひとりに、挨拶をする時間も残ってはいません」
そしてFMからビルボードを賑わせてるヒットチューンが流れ始めた。
確かにそうだ。今日の昼間に、渋谷のスクランブル交差点ですれ違ったたくさんの人間が、あの配列で揃うことは二度とない。 関口とこうして肩を並べて話すことも、もう二度とないだろう。
ラジオからは続けて、南米の甘いラブソングが流れ始めていた。どこかの化粧品会社の夏のCMで使われた曲で、聴き覚えがあった。アシスタントがハンドルをリズムに合わせて指で弾いている。
恋愛だけじゃない。この世のすべては、〝から騒ぎ〟なのかもしれない。ラジオから流れる暑い国の歌は、言葉は分からないけれど、男女の別れを歌ってるように感じた。
関口との18年と8ヶ月。バーテンダーのスー、『BARレイニー』のオーナー、七瀬。そして真田。一つの〝から騒ぎ〟がまた幕を下ろそうとしていた。
次回は6/28更新予定
写真:安藤きをく モデル:瀬戸かほ デザイン:熊谷菜生