ある時は寮のおばさん、ある時はレスラー、ある時はお母さん
しかし新人選手の育成は里村にとって思った以上に大変だった。「GAEAの時は恐らく10年間で40~50人は辞めていると思う」と言うほどにプロレスラーの新人育成は難しい。加えて新団体の旗揚げということもあり、ひとりでも欠けてしまったら団体として成り立たなくなってしまう。GAEAの時にはただひとりのレスラーとして後輩の指導しかしてこなかった、心のケアなど全く考えなかった、という里村が、わずか26歳にして「あるときは寮のおばさん、ある時はレスラーとして、ある時はお母さんとして」、15歳や16歳の少女たちを預かる身となったのである。
名選手、名コーチにあらず、というのはどのジャンルでもよく言われることだが、里村の場合はまた別のところに悩みがあった。多感な、しかも学校ではちょっと問題を抱えたような少女たちも多く集まってくる場をうまくコントロールしつつ、全くの初心者にプロレスを教え、団体を旗揚げさせなくてはならない。「心のケアの部分が8割だった」と里村は当時を思い出す。
「練習の面では旗揚げ戦に向かってガッとやれば、毎日毎日どんどんみんなできるようになるんです。でも精神的なものはそうはいかない。何か寮で人間関係がおかしくなったりすると、次の練習にそれが影響してしまう。仕事と、人間関係をみんな分けられないんです」
時には親御さんに頭を下げたり、リング上でつかみ合いになる若手たちを引きずり降ろしたりしながら、里村は新人選手を教え続けた。そして、2006年7月9日、里村明衣子と里村が教えた新人選手4人のセンダイガールズプロレスリングが、仙台サンプラザで超満員のお客さんを集めて旗揚げしたのだった。
センジョは復興のシンボル
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