専業主婦だった頃、私と社会とを繫いでくれるパイプは夫と子供だけだった。色々あって夫と別居をすることになった時、ホームパーティーを開いて人をたくさん家に招くようになり、結果、その人脈から仕事を得たというのは先に書いた通りである。
履歴書に載る経歴や肩書というのは、結局のところ、何も知らない誰かの信頼性を担保する材料のひとつにすぎない。高卒、職歴無しと、履歴書ではおそらく0点の私が、30歳を過ぎてから働き出すことができたのは、多くの人と個人として出会って、プライベートスペースである家の中に招き入れて、同じ釜の飯を食べたことが功を奏したと感じている。働くのだって結局は人と人とのかかわり合いなのだから、一緒に働く前に信頼関係を結んでいると、お互いに相手の事情に配慮しやすくなるし、助け合いやすくなる。
この時の経験から、人との繫がりのハブとなる場所、「家」のありかたというのは、単なる容れ物に留まらず、中で暮らす人の人生や暮らしに大きく作用するものだと考えるようになった。たとえば、家が家族だけで閉じられるのでなく、外に向けて開かれ、他者を迎え入れることで、家族の抱える問題も実は大きく軽減されるのではないか。
一方で、他人と近い距離で生活するというと、色々と面倒事やストレスもある。二世帯、三世帯の同居が当たり前だった日本で、こんなにも核家族化が進んだのには、それなりに理由もあるのだろう。今さらコミュニティでの生活に回帰すべきと考えるのは、時代錯誤なんだろうか……。
そんなことを考えていた時、友人でジャーナリストの佐々木俊尚さんのご紹介で、東京・池袋にある「メゾン青樹・ロイヤルアネックス」というマンションの存在を知った。ロイヤルアネックスは、青木純さんという方がオーナーとして運営されていて、入居時に部屋の壁紙を自由に選べる「壁紙カスタマイズ」や、壁紙だけでなく、入居者の希望に応じて部屋をリノベーションできる「オーダーメイド賃貸」などのサービスで人気を博している。特に自分の好みに合ったお洒落な部屋に住みたいと望む感度の高い人たちに支持され、空室が出る前から次の入居希望の予約が入る、「行列のできるマンション」として知られるようになった。
これだけなら敏腕オーナーの見事な経営手腕という話にすぎないが、メゾン青樹の面白さはここから先にある。青木さんがオーナーとなってから約3年間で、何と入居者10組が結婚し、さらに11人の子供が生まれたというのだ。
たとえばファミリー向けの戸建てが立ち並ぶ新興住宅地なんかであれば、これから家族になろうとする人たちが多く越してくるわけだから、子供が次々と生まれても自然といえば自然だ。けれどもメゾン青樹の場合、多くの部屋は家族で住むにしてはやや手狭な、50平方メートル台・2DKクラスの間取りになっているという。そんな環境なのに、短期間で11人も子供が生まれるというのは珍しいと言えるだろう。
部屋の壁紙を選ぶことが、どうして入居者の結婚・出産に繫がるのか。オーナーの青木さんに実際にお会いして話を伺ってみると、秘密の一つは入居までのプロセスにあることがわかった。
入居者が自由に選べる壁紙は、部屋の雰囲気を最も大きく左右する重要な要素。だからこそたいていの入居者はとても迷うという。特に未婚のカップルは当然のように揉めるそうだ。普通なら結婚後、家を建てる・買うといった大きな転機でもなければ直面できないカップルの一大合意形成を、賃貸マンションへ入居する時に体験できるというのはとても貴重だ。そこに大家の青木さんが、さながらウェディングプランナーのような立ち位置で付き添い、暖かいおせっかいを焼いてくれるという。
さらにメゾン青樹では、壁紙カスタマイズによって「よその部屋はどんな壁紙にしたんだろう?」とお互いの部屋に関心を持ち、自然と住人同士の交流が活発に行われるようになった。今では、ニーズに応える形で増設されたレンタルパーティールームや屋上ガーデンに多くの住人が頻繁に集まっているという。こんな風にマンション内に横の繫がりが生まれたことも、結婚・出産が短期間に増えた理由の一つだろう。
「結婚や出産って、伝染するんですよ」と青木さんは語る。
特徴あるマンションに同時期に入居したご近所さんたちが、結婚し、子供を産み、家族となっていく様子は、未婚で入居した人たちにとっては、自分のリアルな未来像を見せられているようなもの。漠然とした不安が払拭され、うちもそろそろ、という気持ちを自然に抱けるようになるのかもしれない。
マンション内のベビーラッシュを受け、現在は敷地内に飲食店とコワーキングスペース、さらには幼児教室が増設されている。
特徴的なのは、新たに増設されたこの三つのスペースが、メゾン青樹の住人以外も利用できるという点だ。青木さんに伺ったこの意図が、とても興味深かった。
「築年数が経過すると、どうしてもマンション内の空気が停滞する。だから、マンションの外に向けて風穴を開けておく必要があるんです」
家や家族が外と繫がることの重要性は身をもって実感していたけれど、個々の家が十分に開かれたメゾン青樹のようなマンションでは、今度はさらに外側の、街に向けて開く必要があるという。
これは一体どうしてなのだろう。そのヒントは、青木さんの話に何度か登場した「パブリックマインド」という言葉に隠されているように思う。直訳すれば「公共の精神」である。家のインテリアにこだわる人は、人を家に招き入れるのが好きだったり、家の外と繫がることに積極的だったりして、自ずとパブリックマインドの高い人々が集まったということが、メゾン青樹が一つのコミュニティとして育った要因だろうと青木さんは語る。ここで言うパブリックマインドとは、今自分のいる場所が、自分の場所でありながら、同時に自分だけの場所ではないという意識を併せ持つことを指すのだろう。
プライベートな空間である家に、頻繁に家族以外の人が出入りすることで、家の中に程良い緊張感が生まれる。また、家の中によくやって来る人たちで形成された外の世界には親しみや安心感が増す。つまり、メゾン青樹の住人たちにとって、家の内と外のどちらもが「わが家(仮)」であり、「社会(仮)」でもあると言えるのではないだろうか。