昨年4月から、都内私立高で働くようになった。いきなり高1の担任となり、今は2年の担任として、日々何かと忙しくしている。年は30代前半。ぎりぎり若手扱いされるけど、段々と体はさびついてきている。
もともとメディア業界の片隅で働いていたが、3年弱して「ブラック」な会社から足抜けし、海外留学という名の「逃避」を2年行ない、帰国した。そして、大学院で研究するかたわら、知人経由で降ってくる雑多な仕事をこなすようになった。
でも、30歳を前に迷った。中途半端すぎる器用貧乏! 人生、これからどうしよう…。
教員免許を取ることにした。数々の学園ドラマをチェックして育った。姉もまた教師だった。人生の節目、節目で教師への道を意識しながらも、いろいろな理由からこれまで保留にしてきた(その理由は、これから連載で触れることもあるだろう)。
でも、やはり30歳というのは一つの転機。およそ2年半かけて、中学社会科と高校地歴・公民科の免許を取得した。
そして今、僕は高校の教壇に立っている。
夏休み明けに「変身」する生徒
「ねぇ、なんでダメなの? 嘘だろ!? おかしーだろ!」(遅刻がカウントされたときの、ある生徒の弁)
1年のクラス担任になって、長い1学期が過ぎた。そして夏休み。ここで生徒は「変身」する。新しいクラスメイトの顔色をうかがう様子が薄れ、だいぶアカぬけて、学校に戻ってくる。
2学期。一人の男子生徒が、僕にタメ語を使おうと「ジャブ」を打ってくるようになった。「偏差値」なるモノサシからすると、僕の高校の生徒は決して悪い出来じゃない。明るく快活、そして勉強への姿勢も見上げたもの、という子が多い。
その男子生徒の場合、夏休み前はフツーの少年のようだったが、夏休み明けに、何かが弾けたか。髪色も明るくなった(自由な校風だから、髪色なんて何でもよい)。
そんな彼が、僕にタメ語を使ってくる。
なるほど、タメ語によって教師との距離を縮めようとする子は、いる。そして個人的には、年上に敬語を使うべきだとは必ずしも思わない。
しかし、しかし…。ここは教育現場。自由な校風とはいうけれど、僕は「先生」。教壇に立つ以上、先生は決して生徒と友だちになれない。その男子生徒にも、「おまえさ、世間じゃそんな言葉づかい、すべきじゃねーだろ」と、強めに「指導」(学校現場での万能語)した。
それでもそいつの口は直らないから、くり返し「指導」していこうと思った。
そう思っていた。
だけど、何かがひっかかった。どうもその生徒の態度が、いくぶんぎこちない。はっきり言えないけど、「どこまで、こいつ〔僕〕と対等なところまで踏み込めるか」。探りさぐり、そんなゲームをやってるように感じられた。それだけに、彼はどこか必死に見えた。
あぁ、何かがひっかかる。どこかで見たことがある……。
そうか! こいつは、僕だ!
敬語にタメ語を“ブレンドしてみる”ゲーム
僕もそうだった。中学校時代、部活で先輩・後輩の濃密な茶番劇に参入したときから今まで、「年上の相手が腹を立てない程度のスレスレまで、礼を失することなく、敬語にタメ語を“ブレンドしてみる”」ゲームを、こっそりやってきた(今は職員室で)。
僕の場合は、その男子生徒より自然で、うまかったはず。けれど、やってることは変わらない。いくら注意してもきかないその生徒を前に、遅まきのデジャヴ(既視感)にひたった。
「こいつは、僕に挑戦してきている」。
ひねくれ者の僕は、そう思い直した。で、考えを変えた。その子への「指導」も内容を変えた。
「うるせー、ちょっと聴け! おまえがそこまでやんなら、もういい。許す! けどな、俺ごときの新米教師相手のタメ語で満足してくれんなよ。そんなちっぽけなヤツじゃねーよな? 次は誰にタメ語使うか、考えろ。(生活指導部主任の)○○先生か、(仏頂づらのベテラン)××先生か? たっのしみだ〜」
そう言って僕は、その男子生徒にタメ語を許した。クラスメイト40人の前で。もう、退くにひけなくなった。彼も、僕も。
たった1人で闘う不器用な抵抗者
学校というのは社会の縮図。生徒の中には、「学校のここがおかしい!」と主張し、生徒会の一員になったりして学校の制度を変えようとする者もいる。その子たちにはリーダーシップがあり、周りからも信頼される。
社会に出ても、きっと立派に活躍するはず。なかには、昨今だんだん盛んになってきた政治・社会運動に精を注ぐ者も、きっと出るはずだ。
その一方、僕自身はといえば、集団的な活動には今まであまり乗れなかった。そのくせ、一人で小さな抵抗を水面下にて、効率「悪く」行なうことが、きらいじゃなかった。
タメ語の生徒もまた、そんな不器用な抵抗者の部類に入るのではないか。所属するグループの「流れ」「空気」という無責任なテンションに、乗れない。
そんなヤツ、学校という場にはたくさんいる。だって社会の縮図だもの。
「クラスの輪」なる奇怪な言葉を使うとき、こうした不器用者の存在を、忘れたくない。One for All, All for One。人気「学級目標」ランキングで5本の指に入るかもしれないスローガンは、半歩まちがえれば「奴隷の論理」(一人がみんなのために犠牲になる)をよしとする。くわばら、くわばら。
僕は、「はみ出し者」にとってはパラダイスの業界の隅っこで、働いてきた。それだけに、ザ・堅物教師になっちゃうんじゃ、つまらないでしょ。
そんなで、男子生徒の一人ぼっちの抵抗を、ひとまず祝福することにした。まずはもっとも身近で、日中は保護者より一緒に過ごす時間の長い「権力者」たる教師への挑戦。ヤツの闘いを受けつつ、ともかく見守ろう。そうハラに決めたのだった。
2年生になった彼の鮮やかな転換
これは彼も僕も、学校1年目(去年)のお話。
この4月に2年生になった彼が、今はどうしてるかというと…。
タメ語の抵抗は、あっけなく幕を閉じた。
たまたまなのだけど、この4月から僕は、彼の所属する、ちょっとアマノジャクが集まる運動部の顧問になった。すると、彼は僕に対する「敬語」のウェートをいきなり大きくしはじめた。ぎこちないタメ語が、やっぱりぎこちない敬語に置きかわってしまった。
その部活は、上下関係重視のスポーツ。彼はそれを小学生のときから続けてきたという。部活の彼は、目上には「敬語」という世界の住人だった。そこで、顧問としてその住人となった僕にも、「敬語」を使うようになったのだと思う。
なーんだ、彼もまた、部活の上下関係からは自由になりきれない子だったのか、と拍子ぬけした。
残念でもあり、部活文化の支配力がおそれ多くもあり、だけど、少年らしい鮮やかな転換がすがすがしくもあり。もちろん、去年のタメ語問題のあとくされなんて、これっぽっちもない。
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以上は、先生2年目の今現在、一番印象に残ってる「闘い」の記録。
うさんくさくてウザったいけど、妖しくもありつつ魅力をかもす教育という営み。この連載では、他がダメでズボラでも、少なくとも「弱き者への愛」だけは失いたくねーなと思ってる、年のわりには青くさい新米教師の目線から、教育の風景をスケッチしていきたい。
(次回「ホームルームで生徒から受けた衝撃の洗礼」は、7/6更新予定)