キャバ嬢が、大事なことを教えてくれた。
私は、親子関係の一番大事なこととして、「息子を裏切らない」ことを実践し続けた。
因果ははっきりしないが、息子は東京大学に現役で進学した。
東京大学に合格する学生は、毎年三〇〇〇人ほどいる。いろいろな親御さんがいるに違いないが、両親が水商売というのは、おそらくウチだけではないか。息子が卒業した高校の先生もそうおっしゃっていた。
私は、息子に受験勉強を教えていない。私も妻も高卒だから、教えられるはずもない。
私が息子にしてやったのは、「絶対に裏切らない」ということだけで、あとは息子自身の努力による合格だ。私は、ただただ息子を信じようとした。そう決めた。息子の価値観を信じ、責任感を信じた。そして、可能性も信じた。またその気持ちを息子に隠さず、伝え続けた。「信じない」というのは、子供への裏切りではないか。
子育てには、正解がない。だから、親は悩んでしまう。私だって、悩んできた。
正解がないから、自分が育てられた経験をもとに育てるしかない。ところが、私にはその経験がほとんどなかった。すべてが手探りだったし、我流だった。
夜の世界で出会う、たくさんの女の子たちと接するうち、そうか、人間ってこういうものなんだ、子供ってこういうものなんだ、と気づくことがあった。そのことで、子育ての一番シンプルで、大事な部分を見つけられた。女の子から聞く『よくない親』を大勢知っていたから、自分は踏み外さずに済んだのかもしれない。
子育ては、とても複雑になっている。勉強はできてほしい、性格はおだやかでいてほしい、やる気のある子でいてほしい。親が子供に「こうしてほしい」「こうであってほしい」と求めるものがたくさんある。子供がそれらぜんぶを実現することは難しい。だから親は、カンタンに子供を褒めることができない。褒められないから、子供たちは自信を持てない。
夜の世界の女の子たちは、どれだけの美貌を誇っていても、自分にまったく自信がない子が多い。自信がない子は、チャンスを逃す。人にだまされたり、とんでもない行動に走ったりする。親が、周りの大人たちが、彼女たちに自信を与えることができなかったことが大きな原因だと私は思う。
子育ては、もっとシンプルでいいはずだ。この本が、複雑になりすぎた子育ての歯止めになってくれたら、そんな思いで筆を執っている。
わが家には、何もない。
両親ともに大卒で、年収が高くて、社会的信用が高い職業(医師、弁護士、公務員、上場企業の役員など)、子供にピアノやスイミング、英会話などの習い事をさせて、塾や予備校にも通わせていた……。これが、私が勝手にイメージしていた東大生の家庭像だ。学歴も、経済力も、教育への熱心さも『ある』。
両親ともに大学へ進学していない。
高校生時代の友人に言わせると、「おまえは高校を卒業できたのが不思議」。実際、私が高校3年のときには、当時はまだ導入されていなかった週休2日制と称して、日曜日以外にも高校をしばしば休んでいた。妻も高卒だ。
年収は高くない。
夜の仕事、いわゆる水商売をしているというと収入が高そうだが、地方都市で、さらに雇われ店長ともなれば給料はたかがしれている。正直なところ、お店の女の子よりも給料は少なく、年収で300万円ほど。平均レベルの女の子たちより下だ。
社会的信用がない。
飲食店勤務は総じて社会的信用が低いが、水商売はなお一層低い。金融機関に融資を申し込んでもほとんどの場合、断られる。私の場合は、受け付けてももらえないだろう。
名誉や名声など、あるはずがない。
他人に非難されることがあっても、名誉や名声をもらえる機会などあるはずがない。
ピアノやスイミングなど、習い事はさせていない。
息子が4歳のころ、ピアノ教室に通わせようとしたのだが、「ピアノって女の子がすることじゃない」と息子に言われて断念した。
スイミングを習わせるなど考えも浮かばなかった。英会話なんてどこに行けば習えたのだろう。読み聞かせという手法を知ったのは、息子が中学生になってからだった。
大学受験のための塾も予備校も、通わせていない。
「塾に通う往復の時間がもったいない。だったらその時間でゲームをしたりマンガを読んだりして、自分の時間を自由に使いたい」
と、息子が言うので、必要性を感じなかった。
さらに、私の場合、髪の毛もないらしい……。私自身はとくに気にしていたわけではないのだが、いつの日からかお店のお客さんたちは、私を『ハゲ』と呼ぶようになっていた。人よりはちょっとだけ少ないとは自覚をしていたのだが、私が思っているよりも、お客さんの目は厳しい。
ない、ない、ない、家庭環境で育った息子だが、子育てにおいて私が『ある』と答えられるとしたら、それは、息子への誓いの言葉だけだ。息子が生まれたとき、私は息子にこう誓った。
キミの期待に応えられる親になるよ。
キミを裏切らない親になるよ。
そして、かつて私自身が味わった大きな不安を息子たちが感じないように、声に出してこう伝えた。息子たちというのは、妻の前夫との間に生まれた息子が一人いるからだ。彼も大事な息子であり、家族だ。
どんなことがあっても、キミたちの味方だから。
キミたちが本当に困って助けがほしくなったら、
世界のどこへでも助けに行くから。
私自身が味わった大きな不安。それは、私の子育てに多大な影響を与えた。
父がいなくなった。
茨城県の南東部、かつては「陸の孤島」と呼ばれた地域に「鹿島開発」という一大プロジェクトが動き始めたころ、私はごく一般的な家庭の長男として誕生した。父が23歳、母が20歳だった。1年半後に弟が生まれ、両親と祖母(父の母)との五人家族で何の不自由もなく幼少期をすごした。
幼少期の私は、父とは休日にキャッチボールをしたりして、「パパが好きな少年」だった。母は、ホットケーキを焼いてくれたりして、「ママも大好き」だった。ただ母は「はやく(して)」が口癖で、少しせっかちだった。
私が小学校に入学するころ、家族の中に少しずつ変化が生まれてきた。当時、飲料販売会社に勤務していた父が、自宅から自動車で1時間以上離れた本社勤務になり、単身赴任となった。その2年後、父は突然会社を辞めて、母とは別の女性と飲食店を始めた。
母はヒステリックになり、私に父の愚痴を聞かせるようになっていった。自分の実家が東京で、孤独だったことも関係していたのかもしれない。
ときには、父のお店に電話をかけて、私に嫌味を言わせたりもした。母のつらい気持ちを子供ながらに察した私は、「ママの気が済むなら……」と、言われるままに母の気持ちを代弁していた。
母もいなくなった。
父がいなくなった数年後、私が中学1年生の冬、母は「東京の実家に用事がある」と、出掛けたきり帰ってこなかった。弟は小学6年生だった。
それまでの母の態度や気持ちを子供なりに理解していた私は、母はもう帰ってはこないだろうと悟った。
「両親に棄てられた」と感じた。「いざとなったら、大人は自分たちの都合のいいようにしかしない。子供のことなんて、どうでもいいのだ」と、両親を嫌い、許すこともないだろうと思った。
そして、「自分は子供を裏切らない」と誓った。
祖母と弟と三人での生活が始まった。
祖母は、ぜんそくやリュウマチなどの持病を患っていて、発作が起きるとかなりつらそうだったが、マメな人で、愚痴も言わずに私と弟の世話をしてくれた。両親が共働きだったこともあり、祖母に大事にしてもらった私は、祖母にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと思いながら、中学校生活を送っていた。
祖母と弟との三人での生活が2年半をすぎたころ、私が中学3年生の秋、祖母は体調を崩し、入院した。そうなると隣町に住んでいた父も家に戻り、相手の女性とともに一緒に暮らすことになった。
間近に迫った高校受験、私は実家から通えない高校を選び、一人で生活していこうと考えていた。ところが、私たち兄弟を支えてくれていた祖母が入院してしまっては、考えを変えざるを得ない。
「おばあさんがかわいそうだから、近くの高校に行きなさい」
という父の言葉に従うかたちで、私は志望校を変更した。だが、高校受験の4日前、祖母は他界した。
祖母もいなくなった。
祖母を亡くした悲しみを乗り越えて高校に合格し、新しい生活が始まったが、唯一、私に向き合ってくれていた存在を失ったダメージは大きかった。勉強にも身が入らず、高校へ通う目的さえ見つけられない日々が続いた。一緒に生活をしていても、水商売の父とは生活のリズムが合わず、会話もない。家に『自分の居場所』が見つからなくなってきた私は、だんだんと家に帰る時間が遅くなり、家に帰らない日も増えていった。
私の普通でない生活に気づいていないのか、父は何かを言うことはなかった。「私に興味がないのではないか」とさえ思っていたほどだ。
「もうどうなってしまってもかまわない」とも思った。
次回「一人の女性と出会い、息子が生まれ、そして私は怖くなった」は5/19更新予定
(撮影:キッチンミノル)