愛人を使って気に入らない人間を襲撃させた頼長
男色も利用しながら、政治改革に取り組み、貴族政治の復活を願った頼長。しかし、彼の努力はほとんど報われませんでした。取り組みがあまりに過激、性急すぎて周りがついていけなかったのですね。理想家にありがちなことですが、「正しいのは俺なんだから周囲は黙って従うべき」と、改革者にとって最も大事なこと、理解者を着実に作っていくという努力をひとつもしなかったのです。
それどころか気に入らない人間は、随身の秦公春を使って襲撃するようなこともしています。
内覧を賜った1151年、頼長は公春に命じて、鳥羽法皇の随一の寵臣、藤原家成の屋敷を襲わせました。これは、頼長の雑色、召使いが家成の家来に侮辱されたことの報復でしたが、政治上の対抗勢力である院の権力を削ぐという意図が秘められていました。
しかし、これをきっかけに鳥羽法皇は頼長を疎み始め、保元の乱の遠因となったようです。
ちなみに、頼長の男色相手だった藤原忠雅、家明、成親、隆季は皆、家成の近親者にあたります。
また、執政になる前のことですが、1143年、源成雅という少将を乱闘事件を起こしたというかどで、免職したりもしています。
もともと頼長は成雅のことを「尾籠物」クソ野郎と憎んでいたので、この人事には明らかに私情の臭いがします。しかし、成雅は父・忠実の第一の寵臣でもあったので、事態は複雑化。怒った忠実は頼長に対し宇治の私邸への出入りを半年禁じました。
で、もっとこんがらがることには、後に頼長はこの成雅とも関係を持ってしまうんです!
執政になる前年の1150年から頻繁に交渉を持ちはじめ、成雅が賀茂祭で近衛府の使として出立する折には、いそいそと雑具をととのえてあげたりしています。
頼長は忠実が病に倒れたときは物忌みにも関わらずお見舞いに駆けつけるファザコン坊やだったので、ひょっとしたら、成雅への憎しみは抑圧されたエディプスコンプレックスの発露であり、彼とのセックスは愛人の体を通じての間接的な近親相姦だったのかもしれません。
ちなみに成雅の兄、信実も父親の愛人で、彼の娘と頼長は再婚しました。え~と、だからまとめると、信実は義父であると同時に、父親の愛人で、忠実も義理の叔父であると共に父親の愛人でかつ自分の愛人で妻の兄で……って、ややこしぎるわ、整理できるかこんなもん!
さらに付け足すと、襲撃などの汚れ仕事を任せていた秦公春も頼長の愛人でした。
公春に対する男色は、貴族や武士を相手とするときのような利害がないため、その愛情は本物だったようです。公春も頼長には真摯に仕え、頼長お気に入りの家臣を殺した犯人が恩赦されたときは暗殺までしています。
2人の関係は多分幼少の頃からで、公春の方が少し年上、兄弟みたいに育ったようです。そのため、2人の愛情も兄弟愛に近く、公春は頼長を守り、頼長は公春に甘えるといった感じのものでした。
しかし、1152年、最愛の愛人だった公春は病死。
この時、頼長はショックのあまりあれほど精励していた仕事を3か月も休み、墓の前で幾度も夜を明かしました。日記にもその悲しみを数十ページにわたって書き記しています。
まぁ、その中身については、あんまり長すぎたもので、書写する人が嫌になって「略」で済ませてしまい、何も残ってないんですけどね!
ただ、2年後の日記に、公春と夢で会ったと嬉しそうに記しているところは、男同士の友情の話しと見ても涙ぐましいところがあります。
保元の乱の悲劇
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