もし母親ががんになったらあなたはどうする?

長年の確執から「愛していない」と確信していた母・好子(75歳)に、末期がんが発覚。私は、母の死に際にどう接し、まだ清算していないわだかまりに対処すべきか――。不仲の母の闘病・臨終と向き合うことで得られた気づきを「親の死後に後悔しないための20のレッスン」としてまとめた書籍『不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと』より、レッスン1を特別公開します。

レッスン1 がんの告知~まずは自分の感情に気づく

 湘南の夏は終わろうとしていた。土曜日だというのに海岸線の混雑もなく、材木座海岸のファミレスには母より先に着いた。ほっと胸をなでおろし、窓際の席に座る。

 何年運転をしていてもバックが苦手な私は、駐車場で母と鉢合わせするのが嫌だった。この年になってまで、「……ったく、下手なんだから。ほらほら、もっとハンドルを右に切って」と小言を言われるのはたまらない。

 ぼんやりと窓の外を見ていると、母が愛車のプリウスを停めて、大ぶりのサングラス、花柄のシャツに白いジャケットと、いつにも増して派手な装いで登場するのが見えた。

「胃のCTスキャンを受けることになったのよ」

 電話口の母は、いつになくしおらしかった。

「がんってことかしらね」

 この夏に75歳になった母、好子は、最近の健康診断で「幽門狭窄の疑い」を指摘された。健康関連商品の販売に命を賭けてきた母は、病気らしい病気をしたことがなかった。「健康にはお金をかけてるんだから、簡単に病気なんかにならないわ」と豪語して、次から次へと新しい商品を開拓してきた。母にとっては健康も1つの商品なのだ。

 母は、相手が政治家だろうと大金持ちだろうと決して負けたくない勝気な性格だ。70歳で引退するまでは、中小企業ではあるが健康食品やら磁気水やら数々の商品の製造から販売までを手がける会社を経営していた。超ポジティブ思考で、滅多に落ち込まない。ただ、自分の父親を胃がんで、姉を乳がんで亡くしたこともあり、がんに対してはびっくりするほどの恐怖心を持っていた。

 東京・吉祥寺から呼び出された私は、あえて海の見える場所で待ち合わせた。正直、まだがんと言われたわけでもないのに、実家で延々と愚痴を聞かされるのは苦痛だった。

 母が私の父、真次郎と出会ったのは、1950年代後半の東京・大手町だった。家具の商社に勤めていた好子は、本人に言わせれば「大手町の花形ビジネスガール」だった。

 当時、カメラはまだ高級なものだったらしく、古いアルバムには、結婚前の2人の写真は数えるほどしかない。が、残された何枚かの白黒の写真に映った母は、どれをとっても確かに美しい。写真の中の母は、きっちりと絞ったウエスト、裾が広く伸びたスカートと、50年代のファッションの最前線を取り入れた服装で微笑んでいる。ファッション雑誌に出たことがあるという話も、まんざら嘘ではないだろう。

 一方の父は、母によればちょっとしたイケメンで、後に一世を風靡することになった俳優・石原裕次郎に似ていたという。

「これはこの家を買う時に物件を見て歩いて、たしか逗子の方の山で撮った写真なの」

 母がそう言って指差した写真の中で、父は長めの髪にハンチングを被り、横向きで遠くの海を見ている。ちょっと俳優気取りの父は、当時23歳。嫁をもらったばかりで、これから家を建てようとする若者特有の、怖いもの知らずで自信に満ちた顔をしている。

 私の両親は有名ではないし、金持ちでもない。幼い時に戦争を経験し、戦後の激動期と高度成長期を生き抜いてきた、どこにでもいる「普通の老夫婦」である。

 ちなみに私は40代後半、バツイチのシングルマザーだ。髪は3週間に1度は染めないと白髪だらけになるし、ろくに手入れもせずに日焼けし放題だったせいで、肌には無数のシミができている。

 1人娘の杏はこの年の4月に地方の大学に入学し 、アパートを借りて1人暮らしを始めた。まだまだお金はかかるが、子育てはひとまず終了し、これからの人生をどう生きればよいか私は模索していた。

「幽門狭窄の疑い」と聞いた時は、やっと子育てが終わったら今度は両親の問題か、とため息が出た。あれだけ元気な母が病気というのも信じられないし、母は以前から「どうせいつかはがんになる」と言い続けてきたのだ。今回も、その延長線なのではないか?

「まあ、まだがんって決まったわけじゃないし……。たとえそうだとしても、最近は結構治るらしいよ」

 ファミレスのコーヒーを啜りながら、慰めにもならない言葉をかける私に、母は言う。

「ゆうもんって、胃でしょ? 胃がんは特に痛いのよ。最期は呻ききれないぐらい……」

 母の父親、つまり私の祖父は胃がんだった。亡くなる時にいかに苦しんだかは、これまで何度も聞かされてきたので、次に何が来るかも予測がついた。

「おじいさんはお金に困っていなかったから、ずっと介護の人に来てもらってたのよ。私は仕事もしていたし、『行きたい時にお見舞いに行けばいいかな』くらいに思ってたの。それがある日、おじいさんは『これからはお前たちで面倒をみろ』って言うじゃない。でも、今から考えれば、おじいさん、死期がわかったのね。だから身内に看病させようと思ったのよ。最期は本当に苦しがってね。もちろん、ちゃんと看取ったわよ。子どもなんだから、親の最期を看取るのが当たり前だしね」

 これが話のオチである。最初にこの話を聞かされたのは、その数年前に私の父が脳梗塞で倒れた時だ。母は夫の死を覚悟したのか、「最期は子どもが看取るべき」という逸話を私と兄嫁にとうとうと語ったのだ。結局、父自身は何の後遺症もなく、ころっと治ってしまったが、それ以来、何かというとこの話になる。

 こんなパターンもある。

「最近ね、病院に行ったら家族構成を聞かれたの。それで『夫と2人暮らしです』って答えたら、『心細いでしょう』って。『老々介護ですよ。子どもは3人いるけれど、最近の人はみんなコマネズミみたいに働いているから、誰も平日に休めないんですよ』って言ったら、『同居できる方はいないんですか?』と聞かれたわ」

 もちろん、これも年老いた両親と同居する予定のない子どもたちに対する嫌みである。だが、母自身どこまで本気なのかはわからない。実際、つい数年前までは仕事で全国各地を飛び回り、「お互いに気を遣うよりは勝手気ままに生きていたい」と言っていた。

 もう10年以上前になるが、私が離婚した時には「離婚するのは勝手だけど、出戻りにはならないでね」と念を押されたほどだった。子連れで実家に帰る気は毛頭なかったが、離婚のゴタゴタの最中に発せられた母の一言に、私は内心では完全に打ちのめされた。

 そんな過去があったので、今さら「どうせ旦那もいないんだからアンタが同居しなさいよ」と言われるのは心外だった(もっとも、母は明言せず嫌みを言うのが好きなのだ)。

 いずれにせよ、この日も、最終的にはがんの話になった。

「アンタのおじさんが死んだ時も私が看取ったのよ。おじさんは酒が好きで肝臓がんになったんだから、本人も覚悟はしていたんだろうけどね。がんも末期になると出血したりして、ああ、もう長くないのかなって」

 食事を挟んでこういう話をされると、聞いているほうは食欲が減退するが、運ばれてきたハンバーグをバクバク食べながら話し続ける母をなだめるために、私は口を開いた。

「そうは言うけど、顔色は全然悪くないよ。食欲もあるみたいだし。結構なんでもないかもしれないじゃん? いずれにせよ、検査の結果を待たなきゃならないんだし。病院には一緒に行くよ。それまでは考えても仕方ないよ」

 いつの間にか、両親の病院や役所とのやりとりは、子育てが終わり夫もいない私の「仕事」になってしまった。しかし、それは子どもの学校のPTAの会合にでも行くような「事務的な義務感」からであることは、口が裂けても言えない。スマホのカレンダーを開き、その日は仕事が入っていないことをチェックしてから、「母、病院」と入力した。

 母は「そうね、それじゃお願い」とつぶやいたが、目は外の曇り空を見ていた。

 医師は30代か。もしかしたらもっと若いかもしれない。働き盛りなのか疲れた顔をしていた。検査結果を聞くために両親と3人で診察室に入った私は、神経質そうに眼鏡に手をやる医師に、なぜか哀れみを感じていた。医師は開口一番、こう言い放った。

「大変残念な結果ですが、がんです。CTスキャンの結果、腹水がたまっていることがわかり、腹水を検査したら、CA125という腫瘍マーカーが高くなっていました。このマーカーは主に婦人科系、つまり子宮がんや卵巣がんの時に高くなるのですが、今回は腹水にがん細胞が見つかっており、もうかなり進行しているかと……」

と一気に説明した。

 母も父もあまりのショックに声が出なくなったのか、固まっている。私は、「いきなりCAの数値がどうの、と言われても理解できません。仮に本当にがんだったとしたら、どうすればいいんです?」と質問した。

「方法は2つあります。1つは抗がん剤、そしてもう1つは何もしないことです」

 医師は眼鏡に手をやりながらこう言った。

「つまり、治療しないということですか?」

 医師は「残念ですが」を繰り返した。「いずれにせよ、私は消化器科なので婦人科に行っていただかないと……。当院には専門家がいないので、もし治療を希望されるのであれば、別の病院を紹介します」

 母は相変わらず固まったままだった。が、こんな時にも父は「善い人」だ。

「珍しいがんなんですね。よく見つけてくださいました。ありがとうございます」

 父はどこまでお人好しなんだろう、と感じながらも、私は質問を続ける。

「でも、現時点では卵巣がんなのか子宮がんなのかもわからないってことですか? 母は幽門が悪いかもしれないと言われたんですよ。でも胃は何ともないわけですよね?」

「先ほども説明したとおり、今わかっていることは腫瘍マーカーの数値が高いということです。それ以外は私の専門ではないので……」

 医師はすすんでいくつかの病院に紹介状を書いてくれた。その医師は専門外だったのだから、父の言うとおり「病気を見つけてくれてありがとう」と感謝すべきかもしれないが、あまりにも素早い対応に母は「厄介払いができて喜んでいるのよ」と腹を立てた。

 母のがんは珍しいタイプらしく、3か月にわたり種々多々の検査が続き、何人もの医師に診てもらっても診断がつかなかった。母はというと、がんを告知されたのだから落ち込んだり泣いたりするのかと思ったら、こういう場面では俄然強気になるのか、この「不吉なもの」の正体を暴いてやろうと、「あそこに電話しなさい」「あれを調べなさい」と国家の非常事態に際した首相さながらの指示をがんがんと飛ばした。

 私にとっても、告知からの数か月間は「激動の日々」だった。しかし、母がかわいそうというよりは、むしろ「自分の病状がわかれば、母も告知を受け入れてくれるのではないか」「早く診断が下ってこの緊張感から解放されたい」というのが本音だった。

 最終的には、母の強い希望によって、東京で名前が通っている病院に通院することにした。どんなに待ち時間が長かろうと、通院が不便だろうと、「どうせ診てもらうなら日本一の病院がいい」というのがその理由だ。母らしいチョイスである。通院に1時間半かかるのは気が引けたが、仕方なく、できる限り通院に付き添うことにした。

最期の日、あなたは親と仲直りできますか?

この連載について

不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと

川上澄江

末期がんで余命いくばくもないはずの母・好子は、元来強気で治療を諦めようとしない。そんな母を不憫に思う半面、「母を愛していない」と言葉にできる私は冷血漢なのか、と心が揺れる日々。父・真次郎による老々介護は心配だが、母との同居を考えるだけ...もっと読む

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silverlining_jp @teranishi_t お世話になります。寺西さんの記事を朝日でみました。https://t.co/5ofUcN4V4B... の著者の川上澄江と申します。5月に横浜でトークショーを行います。もしもよろしければ取材をお願いしたく、よろしくお願いします 4年以上前 replyretweetfavorite

y_317 身近な人ががんになる。これは誰にでもあり得る話。いざという時に冷静に対処できるように心の準備をしておく事が大事。 4年以上前 replyretweetfavorite

gen7rrr 川上澄江さんの著書。これは読みます(^.^) 4年以上前 replyretweetfavorite

ponzu1 原発がどこだか中々分からなかったのかな。 > 4年以上前 replyretweetfavorite